日蓮大聖人の法は、どんな生命にも仏の生命が具わっていて、どんな生命でも、南無妙法蓮華経の法を信じ修行する事によって、どんな生命も成仏する事が出来る。という法であります。
①精神を病んでいる人も成仏出来るのか。
②理論的に物事を考えられない感情優先の切れやすい人でも成仏出来るのか。
③文盲の学問の無い、理解出来ない人は成仏出来るのか。
④創価学会員は成仏出来るのか。
⑤何にも分からない乳児、幼児、小学生等々の幼すぎて妙法蓮華経の法が何か分からないチンプンカンプンな人々は成仏出来るのか。
⑥正信会に所属していても、日蓮大聖人の法が何なのか、考えようともしない、学ぼうともしない、朝晩勤行もしない、何にも分からない、たまに手を合わせて南無妙法蓮華経と唱えてみると、何か良い事をしたような心が休まるから、仏壇だけは御安置しているという人でも成仏出来るのか。
⑦日蓮大聖人の弟子であったのだから、五老僧でも成仏出来るのか。
⑧殺人、強盗、詐欺、放火等々の犯罪を犯した者でも成仏出来るのか。
という疑問があります。
悪い事や謗法を犯せば、当然その罪を反省し償わなければいけません。どんなに人を助ける善行を行っても、悪い事をした事がプラスマイナスでチャラになる事はありません。成仏しても法華経の行者として謗法罪障消滅しなければならないものは引き続きます。
私達が日頃読んでいる法華経の中には、一番罪障の深い衆生は、【不聞三寶名】と言い、【法仏僧】の三寶の名を生涯の中で一度も聞く事、縁する事が出来ない生命は、成仏する事は勿論の事、地獄に堕ちる事も出来ないで、ひたすら【法仏僧】【南無妙法蓮華経の法・末法の本仏日蓮大聖人・第二祖日興上人】の三寶の縁に出会うまで、さまよわなければいけないというのであります。つまり、一番大切な事は妙法に縁する事であります。縁をして、信じる人、信じられない人、反発して否定し誹謗する人、まったく関心を持たない人等々と分かれます。信じる人は法華経の行者となります。信じられない人、反発する人は、一切衆生平等成仏の法を否定した謗法の苦しみを経験する事になり、その百年二百年の地獄の苦しみの中から、以前に南無妙法蓮華経の法に縁した事に気付き、南無妙法蓮華経の法が一切衆生平等成仏の法である事に目覚めます。
【常不軽菩薩】も、今自分が24文字(妙法蓮華経の法)を折伏すると、暴力、誹謗の難を受けなければならないのは、自分の過去に24文字(妙法蓮華経の法)誹謗の罪がある為、今その謗法罪障消滅として弘通に苦難をうけているのである【其罪畢己】と説かれています。そして、その【常不軽菩薩】を誹謗している24文字(妙法蓮華経の法)誹謗の【四衆】は、その罪を【畢是罪己】の罪を受け、何年も地獄の苦しみを受ける中で目覚め気付いて謗法罪障消滅して初めて、【常不軽菩薩】と同じ【其罪畢己】の生命として生まれ、24文字(妙法蓮華経の法)行者として生きる事が出来ると説かれるのであります。
つまり【畢是罪己(不信者)】の機根から【其罪畢己(信仰者)】の機根に変わり、
【汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏する事を得べしと】と、法華経の行者として生きる志が、成仏なのであります。事故で身体の自由が奪われ、老衰で身体の自由がきかなくなり、寝たきりになったとしても、何もまだ分からない乳児であっても、①②③④⑤⑥⑦⑧全部いつかは必ず、機根が切り替わり成仏出来るのであります。④は南無妙法蓮華経が現世利益の呪文であるという考え方の間違いに目覚めない限り、どれだけ南無妙法蓮華経の御題目を唱えても、【不聞三寶名】と同じで、南無妙法蓮華経の縁に触れた事にはならないと考えます。誰もが仏性(仏の生命)を持っていますが、その仏性に気付き目覚め信じる事が出来なければ、持っていないと同じなのであります。仏性は平等ですが、信じる事が出来なければ、成仏は出来ないのであります。
だからこそ、【行学】は、自分で自分に、妙法の縁を何度も何度も深く結び、二度と不信謗法者に逆戻りしない為に、とても大切にしなければいけない事なのであります。他人にも自分にも、妙法の縁を深く結び、南無妙法蓮華経の宿縁深厚の法華経の行者、いつでも南無妙法蓮華経の仏の自覚、信心修行の喜びを感じる事の出来る衆生を目指してもらいたいのであります。