ここで述べる事は、私自身が今迄信心修行をして来た中で、実感した事を、そのまま正直に皆さん方に伝え、皆さん方は、皆さん方の信心修行の中で、どの様に実感されているのか考えて貰えればと思い、ここに書いてみました。
一般的に、【三業】とは、【身口意の三業】と呼び称されています。しかし、私達が信仰する現実に合わせて考えてみると、この順番は、発音し易い語呂並べで、こうなったのか、もしくは、何かを表現する為に、この様に並べてあるのか、その意味する所は、仏教の今日までの歴史の中で、言及した文献を眼にした事が無い為分かりませんが、信仰が深化して行く順序で考えると、題名に掲げた【口・意・身】の順序が自然な順序である事が分かるのであります。
【身】とは、信仰生活、行動、生き方。
【口】とは、発音、唱える、声に出して読誦する。
【意】とは、その教えの意味を学び知りたい、その教えの心に近づこうとする心。
という意味内容になります。【三業】の業とは、心身、生活の基軸となる必要不可欠の資質の事であります。
この意味内容を基盤にして我々凡夫の性を素直に考えると、【身・口・意】の順序は極めて無理と違和感が有るという事が分かります。つまり、一番目に、いきなり南無妙法蓮華経の生き方をするという事は出来ません。二番目に南無妙法蓮華経を口唱し、三番目に南無妙法蓮華経の心を抱く。これでは、支離滅裂、無理難題という事が誰でも容易に分かると思います。この事から、題名に示した、【口・意・身】の順序が然るべき順序ではないかと考えるのであります。
私達が日蓮大聖人の法に縁する一番最初は、老若を問わず、南無妙法蓮華経の御題目を耳にする(聞く)か、見るからだと思います。大人と違い、幼児であれば、経験知識が無いわけですから、聞く事、見る事が初めてで、何の先入観もなく縁する事になります。大人は経験知識を持っていますから、これは何だろうという思いを持って縁します。
耳の聞こえない人は、【なんみょーほーれんげーきょー】が聴こえません。眼の見えない人は、【南無妙法蓮華経】の本尊の文字が見えません。耳、眼、口、どちらも不自由な人は、聴こえない、見えない、喋れないのであります。それでも、点字、手話、骨伝導、で、【南無妙法蓮華経】の法に縁する事が出来、感じる事が出来ます。という事はつまり、【南無妙法蓮華経】の文字、【なんみょーほーれんげーきょー】の声も、見えない、聴こえなくても、実はその奥に、凡夫の眼には見えなくても、確かに全ての生命の基軸となる法が存在しているという事実なのであります。
日蓮大聖人の法を他人に勧める人は、日蓮大聖人の教えは、日蓮大聖人の顕した、法華経の南無妙法蓮華経の御題目の本尊に向かい、南無妙法蓮華経の御題目を唱える事を伝えます。「南無妙法蓮華経と書いてある本尊に左右の掌を合わせて、ナンミョーホーレンゲーキョーこうして唱えるんだよ。」と言って、唱え、聞かせ、やって見せます。「じゃあ一緒に唱えてみよう。」と言って、唱えてみます。南無妙法蓮華経の字を見ても、聞いても、人間は心の中で確認して、つぶやく様に反復して心に浮かべてみるものであります。発音に不自由な人は、【南無妙法蓮華経】を心に念じ思う事自体が、唱える事になります。初めての人は、小さな声でつぶやいてみて、嫌だなあ~っという感情や、なんか心地良い清々しい気持がするな~っという色々な感情が、自分自身でも説明できない理屈抜きで心に湧き起ります。【口】で唱える前段階の条件として、【聞法下種】という大切な縁があり、【聞く】⇒【見る】⇒【唱える(口)】となって行くのであります。自分一人の時でも唱えてみようかと思う人。皆と一緒なら、唱えてみようかと思う人。逆に何か憎しみ、吐き気を感じる人。子供であれば、親が言うから、家族が皆やっているから、何の抵抗もなく物心がついた時には自然にやっていたという人、皆と一緒なら嫌だという人等々色々な感情があります。
発音がむつかしければ、ナムナムから始めて、ナンミョーホーレンゲーキョーと、つっかえながら唱え、家族が、すごいね~、えらいね~と言って褒めてくれ、喜んでくれるならと、一所懸命唱える様になります。しかし【南無妙法蓮華経】の意味内容、法の心、日蓮大聖人の事は何も分かりません。こんな最初の縁は、他宗の「南無釈迦牟尼仏」でも「南無阿弥陀仏」でも「南無大師遍照金剛」でも、縁の最初としては同様の事が生じるのであります。
こんな風にして、人生経験の有る大人や人生経験の無い子供の信心が始まるのであります。
どんな人も、毎日毎日、縁に触れて唱えていくうちに、南無妙法蓮華経の御題目って何だろう、御経って何が書いてあるんだろうと思い、知りたいという知的欲求、疑問が芽生え、本を読んだり、知識がありそうな人に尋ねます。疑問を持ち、疑問を晴らそうとしない信心には、信心の進歩深化はありません。知っても知らなくても、御題目に象徴された法は、全ての生命に平等に尊いのですが、知らないで唱えるより、少しでも知って唱える方が、納得と共感の喜びを得、より信心の心を深くし、何をしているのかと子供や孫、親族、友達、縁する人から素朴な質問を受けた時に、説明し伝える事も出来るので、生活からかけ離れた深い専門仏教学術的な知識でなくとも、何を読んでるの、どういう意味内容なの、どういう教えを信じているのか、何故信じているのか、何故読まなければいけないのか等々と他人に問われなくても、素朴な自問に自答出来る自分であり、他人から、何故やっているのかとの質問された時に、即答出来るだけの認識の整理がされていなければ、生まれた時から家族がやっていたからでは、信じているとは言えないし、ささやかな批判や、人生に極まった時、簡単に根こそぎ、不信の心を起こし退転したり、荒唐無稽なカリスマ教祖に洗脳されたり、姓名判断や手相、占い等々に救いを求める様になってしまうのであります。そうならない為にも、自分の信仰を、自己矛盾の無いように整理し、信念として心根に刻んでおかなければならないのであります。
【口】で唱える度に、【眼】で見る度に、心の中で【南無妙法蓮華経】と良しにつけ悪しきにつけ心に思い浮かべるのであります。そうすると【意(心)】意識が、その縁によって動くのであります。
【南無妙法蓮華経】と【口】で唱える事によって、【意(心)】も【南無妙法蓮華経】の法に叶う心に向かって行き、己心の南無妙法蓮華経の仏性を、呼び呼ばれて、かすかでも瞬間瞬間に感じる事が出来るのであります。そうする事によって【身(行動、生き方)】も【南無妙法蓮華経】に叶う生き方になって行く。これが【口】⇒【意】⇒【身】の三業の本来の順序成り立ちなのであります。古来から言われて来た、【身・口・意】では、信仰深化の順序成り立ちにはならないのであります。
【南無妙法蓮華経】と【口】に唱える事は、【意(心)】も【南無妙法蓮華経】と思い念じなければ、【南無妙法蓮華経】と唱えている事にはなりません。【南無妙法蓮華経】の信仰をするという事は、【身】法華経の行者として生きる事であります。山谷曠野、何処であっても、信行に勤めるその場から一歩も往かず、即座に霊山となる【即身成仏】。法華経の行者として生きる姿がそのまま成仏なのであります。そして、この【口・意・身】の信仰深化の順序は、【信】【行】【学】【折伏】の信仰の四本の柱とも、即応するのであります。信じ、修行し、法を学び、自分が何を信じ、何を行じているのかを知り、妙法共感の喜びを得、その信仰の信念、喜びを縁する人々に伝え、下種折伏するのであります。
常不軽菩薩品第20(開結568p)
而も是の比丘、専らに経典を読誦せずして但礼拝を行ず。
と、読誦しているのに、読誦を否定し、但行礼拝を行ずる事を示され、不思議な否定をされているのであります。只、【口】で、御題目、御経を唱え読誦するのでなく、【意】【身】に【南無妙法蓮華経】を体現して、人法一体となってこそ、【但行礼拝】であり、三業一身一体と言えるのであります。故に【口・意・身】の順序成り立ちを大切に考えなければならないのであります。
大石寺の貫主が、色紙に『信心とは折伏なり 日如』と書いてあるのを眼にしました。人数欲しさに、身も蓋も無い、露骨な言葉の鼓舞、号令が殴り書きされているのであります。【口・意】の順序無く、【信・行・学】の順序無く、【身】【折伏】は、出来ないのであります。もし順序無く、折伏をしようとすれば、必ず【功徳が有る、利益が有る】【正統門下≪戒壇本尊絶対≫≪血脈絶体≫】の現世利益と虚妄の権威を振り回すだけの、世の中を見下した我田引水の独善的体質だけが剝き出しになった折伏と言えないものが、世の中に蔓延するだけなのであります。創価学会がやってきた事をそのままの繰り返しているのであります。
私達の様な、とても成仏を遂げる事など出来そうも無い、末法の、弱くて、ずるくて、卑しくて、迷い、怠ける、自他共に御し難い、荒凡夫であっても、全ての生命に平等に仏の生命が具わっていると示される、唯一の法、日蓮大聖人の法を【口・意・身】【信・行・学・折伏】に心身共に努力精進して、生命に染めて行かなければならないのであります。
何千年も昔から、【身・口・意】と呼び称され、常識の様に定着し、世界中に拡がっている言葉を、【口・意・身】に改める事は、むつかしい事だと思いますが、少なくとも私達一人一人の法華経の行者が、【口・意・身】の成仏への道を歩み進む、信仰心の深化への順序成り立ちの【口・意・身】を心に抱いて精進したいものと思うのであります。