新型コロナウイルスの全世界への感染によって、何十万もの人々が亡くなって、WHOは、このコロナウイルスには終息はなく、風土病として残るという発表をし、識者の中には、最終的には千万人単位の死者が出ると言われている人もいます。現在進行形の悲惨さを朝から晩までリアルタイムで見せられると、民族間の争い、宗教間の争い、思想の違いに於ける争いから起きる殺し合う人間の愚かさが浮き出され、暗澹たる気持ちになります。天地に起こる自然大災害は、その場所だけ、その時だけですが、ウイルスは世界中に、いつまでも続き、誰にも死の恐怖を予感させ感染して行くのでありますから、大災害の様に以前に戻す目標を持てない、不安や怒り、何に向かって頑張れば良いのか、自然大災害よりも被害が想像を超え甚大な為、虚無感、喪失感、絶望感の底無し沼の様な心理になって行くのであります。人類が未だかって経験していない事が世界同時に現在進行で展開されているのであります。
世界はあまりにも甚大な被害と変化の為、以前の生活を目標にして戻す事が出来ません。手本の無い、まったく新たな価値観、目的観、思想、経済、産業等々の構造を作り直さなければいけなくなりました。ウイルスは、今回の新型コロナウイルスだけではなく、未知無数にあるウイルスの中の、たまたま一つが、何かの縁で出てきただけであります。つまり、人間はウイルスはじめ他の全ての生命と繋がり共生していかなければならないにもかかわらず、キリスト教文化を物差しにして来た人類は、神に似せられた優れた選ばれし存在であり、全ての生命の頂点に立ち、全ての生命を配下に置いて際限なく発展進化するものであり。当然もうウイルスを制圧したという考え方が、慢心に満ちた錯覚幻影幻想であり間違っていたという事が今回の事で証明されてしまったからであります。
オゾン層破壊、エルニーニョ現象、ラニーニャ現象等々の異常気象、地球温暖化、いつ起きてもおかしく無いと予告されている巨大東海地震、かっての阪神淡路大震災、東日本大震災等々の災害は【いつか何年後何%の確立で】という、儚く微力ながら科学的予測、予兆があるが、しかし、今回の新型コロナウイルスの蔓延は、予測、予兆の無い。【いつでも】という、揺るぎない基盤であると思い込んでいた大地のそこかしこに、死を直視覚悟しなければいけない落とし穴が隠れている事を思い知らされた。
大災害は、【頑張れ日本】【頑張れ阪神淡路】【頑張れ東日本】と国を挙げて励まし、支援、ボランティア等々によって、ワンチームの一体感が産まれ、復興支援の中で新たな暖かい人間関係の輪が産まれました。沢山の方々が亡くなり、行方不明のままになっている方々がいますので、破壊される前の状態に戻す事は不可能ですが、以前の形を目標に、以前より機能的で防災意識のある町に復興することが出来ます。
しかし、ウイルスは正体が見えず、長期に渡り世界全体で沢山の生命が亡くなって行く為に、短期間に地域が限定され起こる大災害の状況とはまったく違います。感染予防の為【三密(密接・密集・密閉)】という、人間が一体感を感じる親愛の情のあらわれ、表現が禁じられ、夫婦、親子、兄弟等でも距離を置き、マスクをして会話をしなくてはならない。テレビを見ていても、テレビの中に又テレビの画面があって、自宅からのテレワークでコメンテーターが喋り、スタジオの司会者も2メートルの間隔を置いてバラバラに立っています。これが、これからの時代の常識的な形態になっていくのだろうなと感じます。誰が被害者で加害者になるか分からない為、全ての人が、まず相手に不信感不安感を抱きながら接しなくてはならない世界。一体感を持つ事が出来ない世界。今迄世界が目指し実行して来た、ワイワイガヤガヤと一緒に飲食をして同じ場所時間を共有し、相手の事を知り、自分の事を知って貰い、信頼関係を結ぶという世界と真逆の、離れなくてはいけない世界が、これから広がって行く世界なのであります。
日蓮大聖人が、【立正安国論】で
「死を招くの輩既に大半に超え悲しまざるの族敢えて一人も無し」
と示されたと同じ情景が、今世界中で同時に起きているのであります。
日蓮大聖人は、創価学会や顕正会の様に、信仰をすれば病気に罹らない、死なないで助かるとは言っていません。日蓮大聖人御自身も、いつ自分が死んでもおかしくないと毎日死と向き合い生活していたと思います。いつ死んだとしても、一切衆生平等成仏の法のもとに死んでいくのか、一切衆生平等成仏の法でない念仏の謗法に期待をかけて死んでいくのか、限られた生命の瞬間瞬間を如何なる法を中心にして生きるのかを、信仰どころでは無い、西方極楽に往生出来るかどうか全ては嘘か真か分からないけど阿弥陀如来に全て御任せするんだと不安から眼をそらさせ、死を美化し、絶望感に苛まれる心を誤魔化そうとする鎌倉の人々に対して、法華経の信仰こそが一切衆生平等成仏の法、永遠常住の生命を救う唯一の法であると訴えて行ったのであります。どうする事も出来ない絶望を抱え、病気が治る悩みが無くなると訴える宗教は力を失い。死んで極楽浄土へ行けると、嘘の救いと安心感を説く宗教はカビの様にはびこり。法華経は、自らの生命に具わる仏の生命を信じ、死んだらお終いではなく、永遠常住の生命の中で、今の苦しみが試練として有ると説くのであります。 末法濁悪だから、謗法の国だから、諸天善神が国を捨てているからこうなるんだ。分かりもしない凡夫が、信仰している自分は蚊帳の外と思い込み、世間を見下して裁判官が判決を言い渡す様にしたり顔で言っている人達がいます。日蓮大聖人が産まれる170年前から末法であり、謗法の国であり、諸天善神は国を捨てたままなのであり、今更上から目線で言う事では無いのであります。そんな事は生きる力、希望の光になりません。それよりも、どんな時代になっても、日蓮大聖人の法は、一切衆生が希望を抱いて生きる力になる法であるという事に一切衆生が目覚められる様にしなければいけないのであります。
日蓮大聖人は、「大悪大善御書」(全1300p)に、
大悪起これば、大善来たる
と示されています。世界同時のコロナ感染ほどの大悪が起こっても、多くの人々は大善の妙法に振り返り気付くという事がありません。それは、私達が日蓮大聖人の万分の一でも、現世利益などでは無い、本当の折伏をしていないが故に、大悪が警鐘となって、立ち止まり、振り返り、過去の妙法の縁を想い出し手繰り寄せ、大善の一念三千の法に目覚めるという事が出来ないのであります。
私達が妙法の下種をしていないから、これ程の大きな警鐘が鳴っても、誰も妙法こそが一切衆生平等成仏の法であることに目覚められないで彷徨っているのであります。私達こそ、その事に責任を感じて、下種の使命と責任を果たしていない事の反省を踏まえ、単なる災禍では無く、変毒為薬の警鐘であると伝えて行かなければいけないのであります。
顕正会の人と話をしましたら、顕正会の人は臨終の時、黒人でも白人の様に白くなる。東日本大震災で原発事故が起こり、作業に従事した従業員は被爆したけれど、顕正会員の従業員は被爆しなかった。コロナにも罹らない。と言ってマスクをしていました。総罰だ総罰だと言いながら顕正会員だけは蚊帳の外で守られるという荒唐無稽の思考なのであります。仏法もコロナも被爆も全て道理であります。そうなるような行動をすれば、信仰をしていても感染し被爆するのが当然の道理であります。
日蓮大聖人の法は、そんな事を説いているのではありません。この混乱の中でも浮足立って情報に右往左往しないで、一番に妙法を根本として生きる大切さを忘れないで下さい。そして基本となる手洗い、マスクを厳守し出来得る限り人混みを避け、感染の可能性が小さくなるよう、信仰者は信仰していれば守られるでは無く、信仰者は信仰していない自己の感情を中心に考え道理から外れている人々よりも、多岐に渡り注意深く生活していかなければならないのであります。
仏法も依法不依人、自然界も依法不依人なのであります。