日蓮正宗の塔婆書写に於ける法華経経文について

日蓮正宗の化儀によれば、塔婆建立の際、塔婆の表書きに、僧侶と俗人と畜生、そして生前の僧侶の階級に区別を付けて、妙法蓮華経の下に二行にして書く御経文を別々にするという事をしています。以下に列挙しましたので、目を通して頂ければ、意味する所の内容が分かると思います。

①歴代貫主塔婆
妙法蓮華経 唯我一人 能為救護 奉備

※「唯我一人 能為救護」(唯我一人のみ能く救護を為す) 譬喩品第三(開結234p)

②上人・贈上人塔婆
妙法蓮華経 慧光照無量 壽命無数劫 奉擬

※「慧光照無量 壽命無数劫」(慧光照らすこと無量にして寿命無数劫なり) 壽量品第十六(開結509p)

➂大徳塔婆
妙法蓮華経 一心欲見佛 不自惜身命 擬

※「一心欲見仏 不自惜身命」(一心に仏を見たてまつらんと欲して自から身命を惜しまず) 壽量品第十六(開結509p)

④御信者塔婆
妙法蓮華経 此中已有 如来全身 為

※「此中已有 如来全身」(此の中には已に如来の全身有す) 法師品第十(開結391p)

⑤畜類塔婆
妙法蓮華経 皆遙見彼 竜女成仏 為

※「皆遙見彼 竜女成仏」(皆遙かに彼の龍女の成仏して) 提婆達多品第十二(開結423p)
 死んで迄、生きていた時の身分階級、生命をランクを付けし、上位と思い込み誇示し、下位と見下す差別感を霊山浄土に持つて行ってひけらかす事が出来ると思っているのでしょうか。一切衆生には平等に仏性が具わっているという日蓮大聖人が悟り解き明かされた法、常不軽菩薩の、「我深く汝等を敬う敢えて驕慢せず所以は如何汝等皆菩薩の道を行じて當に作仏すべしと」の姿勢を、法華経の行者の生き方とする法を信仰しながら、軍隊の階級勲章の様に肩書に執着する事の愚かさを、深く考えなければいけないと思います。
 ①の歴代貫主が何故「唯我一人 能為救護」なのでしょうか?貫主だけが唯一能く一切衆生を救護成仏をなせる悟った仏で、後の全ての衆生は迷いの凡夫という考え方なのでしょうか。それでは、日蓮大聖人の法を否定する事になります。大石寺は、日蓮大聖人の法を否定する貫主本仏の思想が至極当然と根強く思っている為に、仏を賛嘆する経文を、無理矢理、貫主に置き換えて、貫主を賛嘆しているのであります。経文の下に 奉備 と書くのも、日蓮大聖人の法は一切衆生平等成仏であり、妙法経力即身成仏であります。何に奉り備えるのでしょうか?妙法蓮華経の法にでしょうか?貫主は凡夫では無い、仏と拝して奉り備えるという表現になってしまっています。妙法蓮華経の法を主体にすべきものを、貫主を主体にした顛倒の形容詞であります。いずれにせよ、上記の経文の真意からして、貫主の塔婆に書写すべき経文ではないのであります。

②の上人・贈上人には、何故「慧光照無量 壽命無数劫」なのでしょうか?この経文も、妙法蓮華経の法と仏に向けられた内容であり、上人・贈上人に対する形容とは到底ならないものであります。又、経文の下に、 奉擬 と書写します。この形容詞も擬は、本物に限りなく似ている。準ずるという意味ですから、能化等の階級に当たる、上人・贈上人は貫主に準ずるという意味になります。という事は、この表現により①の奉備も次の③の擬も完全に妙法蓮華経主体では無く、亡くなった故人を主体にして塔婆を建立しているという意味になります。とんでもない間違いを犯しているのであります。
 
 創価学会が独立路線行動に出た、昭和50年代に、先祖故人の追善供養を会館で行うとの方針で、その回向用紙に、この「慧光照無量」の経文を表示したが、どういう思いを抱いて、この経文と追善回向を結び付けたのでしょうか。取り敢えず、追善供養したい先祖故人の羅列と願主の名前だけでは軽々しいので、良さそうな経文を用紙の最初に大きい字で印刷し、もっともらしく見える様な大義名分にしようとの付け焼き刃としてやったとしか思えないのであります。
 こんな創価学会の安易な発想と、上人・贈上人には「慧光照無量 壽命無数劫」の書写は、日蓮正宗に百年以上続けられて来た化儀であったとしても、発想が同根で、そぐわないもので、上人・贈上人の塔婆に書写すべき経文ではないのであります。三祖の時代からあった化儀では無く、僧階階級に執着し、権威付けに拘り、それを産み出し規約化した江戸期に本来の法門から逸脱して、この様な化儀が生れたと推察出来るのであります。

➂の大徳には、何故「一心欲見仏 不自惜身命」なのでしょうか?この経文は、全ての法華経の行者のあるべき信仰の志の姿勢を明示したものであります。当然大徳だけに冠し添えられる内容をではありません。
 ②で指摘したように、擬の表現も、妙法経力即身成仏を示す、妙法蓮華経の法を主体にせず、故人を主体にした表現であり、日蓮大聖人の法門から外れる形容であります。
  
④の御信者には、「此中已有 如来全身」(此の中には已に如来の全身有す)法師品第十(開結391p)とあります。この経文は迹門に當る、法師品第十ですが、内容は本迹に貫かれた、法華経の基本テーマである仏の中味が表現されています。つまり、釈尊がどれ程偉大でも信仰の中心の本尊ではなく、釈尊が過去世に信じ修行し悟り仏に成る事が出来た妙法蓮華経の法こそが、釈尊の中味である。その中味を信仰の本尊としなければ、一切衆生は釈尊始め一切の諸仏と同様に仏に成る事は出来ないと、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経 日蓮 在御判の文字曼荼羅を顕わしたのであります。龍ノ口法難以前の釈尊本尊で事足りるのであれば、日蓮大聖人が敢て文字曼荼羅を顕わす必要は無かったのであります。釈尊像の本尊をどれ程拝んでも、釈尊の中味が南無妙法蓮華経の法であるということは、末法一切衆生荒凡夫には開悟出来ないから、ストレートに南無妙法蓮華経の文字曼荼羅を顕わしたのであります。この事を端的に「此中已有 如来全身」の経文は表しているのであります。そして、この経文の下に 為 として、故人の追善供養の 為 に 此中已有 如来全身 の妙法蓮華経の題目を書写する。という意味になります。私は、この塔婆の表書きが、歴代貫主、上人贈上人、大徳の主体が顛倒しているものよりも、一に優れて追善供養に合致した、相応しい内容だと思います。
 全ての塔婆の表書きはこれに統一してしかるべきだと考え。私は45年前から、師匠の日達上人はじめ、動物に至るどの立場の生命(畜生も)の追善供養も、妙法蓮華経 此中已有 如来全身 為と書く様にしています。
 ⑤の畜生においても、何故、悉有仏性、一切衆生平等成仏、変成男子を超越して即身成仏を説く、日蓮大聖人の法の下に「皆遙見彼 竜女成仏」(皆遙かに彼の龍女の成仏して) 提婆達多品第十二(開結423p)の迹門の法門に立脚する経文を書写しなければならないのでしょうか?三千大千世界、森羅万象、全ての生命は繋がり、無始無終、無量無辺、永遠常住で、全ての生命に仏性が具わり、全ての生命は成仏する資格があり、全ての生命は平等であるというのが、日蓮大聖人の久遠元初・本因妙・一念三千の法なのであります。生きている時には、動物や虫には、それぞれの国土世間がありますが、死んで尚且つ即身成仏でなく、竜女の変成男子に止まらせる必要が有るのでしょうか?動物も、虫も、全ての生命は十界互具であると説きながら、歴代貫主、上人贈上人、大徳、御信者と階級、差別、区別を付けたがる、爾前迹門と、全く同じ発想ではないでしょうか?動物や虫の追善供養でも、
妙法蓮華経 此中已有 如来全身 為 で、日蓮大聖人の法にもつとも相応しいと思います。
 亡くなって迄、生命の差別区別に固執し、僧侶の階級に固執する事は、まさしく名聞名利、我慢偏執の心であり、階級を表現する絵柄綾織の袈裟衣に執着する名聞名利の心と同根であります。
 名聞名利は今世のかざり我慢偏執は後生のほだし (持妙法華問答抄全463p)
の日蓮大聖人の聖戒に逆らう姿を、現在の塔婆供養の経文書写は、此中已有 如来全身 為 以外は全て破っていると言えます。
なんの批判精神も問題意識も持たず漫然営々と、昔からやって来た事だからと踏襲し喜びを感じ、面子を感じたりして、指摘、批判をされると、屁理屈で逃げたり、無視したり、多勢にまぎれ、自分の責任でないと当事者で無い様な振りをするのでなく、どう考えても日蓮大聖人の法に叶わないものは、三祖の時代に無かったものが、いつの時代かに変質改悪して定着してしまった悪弊化儀である事を、認め反省し、日蓮大聖人の法に叶うよう矯正改善して行く信仰心を持たなければいけないのであります。

※私自身は、将来亡くなった時に、僧侶として、 一心欲見仏 不自惜身命 擬でなく、森羅万象全ての生命の繋がった大海からすくいだされた一滴として、全ての生命は平等ですので、一つの生命として一番相応しい 妙法蓮華経 此中已有 如来全身 為 で追善供養して貰いたい、相応しくない①②③は止めて貰いたいと願っています。