私は、昭和38年3月28日、年分得度4期として大石寺で出家し、その時から事あるごとに、
【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】
と、先輩達から言われ続け生きていた。全ての日蓮正宗の僧侶は、この二つの事を洗脳を洗脳とも思う事なく、遺伝子の様になってしまっているのであります。私自身も、この洗脳にどっぷり浸かっていた為、常に150人以上の閉ざされた寄宿世界の大石寺時代から始まり、京都平安寺の高校生時代、東京池袋の法道院から昭和46年~50年立正大学に通い、身延日蓮宗との違いを学びながら、一般社会の中で奮闘されながら信・行・学に励む御信者さんに触れ、色々な話を伺いながら、大石寺にいた時と比べものにならない沢山の事柄を見聞きするようになった。時代は丁度、創価学会の「池田本仏体勢」まっしぐらの時代でありました。退転者のマイナス計算をしない、功徳が貰えるから、御受戒を受け、御本尊を持っていなさいという入信者のプラス計算だけですから、実数は暗い闇の中で、当時自称1000万所帯と豪語し、広宣流布前夜のように自作自演のバブルに浮かれていましたが、冷静に考えれば、1000万は、家族三人として3をかけても日本の人口の10分の3であり、広宣流布どころではなく、【舎衛の三億】の屁理屈にも届かない、自己催眠術、誇大妄想狂だったという事が良く分かります。しかし、創価学会と僧俗一体と考えていた私は、選挙といえば公明党に投票し、「創価学会を斬る」藤原弘達著の本や、創価学会の矛盾を指摘した週刊誌が店頭に並べば、動悸がし、手が震え、沢山のお金があれば、全部買って焼き捨てたい気持ちでいました。創価学会、大石寺への妬みで、出る釘は打たれるの世情になっているんだと思い込んでいました。しかし、池田大作が国会喚問に怯え、日蓮正宗の国教化の目的を降ろし、国立戒壇を言わないと言いながら、日逹上人には正本堂を国立戒壇と認めよと迫ったという話を聞いた時から、これは創価学会も、大石寺も、今まで言ってきた事と違っておかしいぞ、辻褄が合わないぞと思う様になり、「創価学会を斬る」を読んでも、キャンペーンの様に毎週特集記事が出る数種の週刊誌の記事を読んでも、ガセネタでも何でもなく、今まで見てきた創価学会員の行状そのものなのであります。さすがに私の洗脳も、ほころび始めてきました。そう言えば、大石寺時代、中学生になった頃から、何人もの先輩に、「戒壇本尊絶対、戒壇本尊絶対と言いますが、何で絶対なんですか。」と、次々に尋ねましたが、「絶対だから絶対なんだ、絶対なんだから説明が出来るか。」「頭でっかちになるな、ひたすら信じるのが日蓮正宗の信心だ。無疑曰信だ。」「色々批判する者は、不相伝の輩だ。」と、言われ続けて来たことがフラッシュバックしてきました。絶対、絶対と言いながら、何故絶対なのか答えられる人は一人もいなかった。絶対の中味が何かも分からないで、考えようともしないで、絶対と主張している。そんなものを広宣流布して何の意味が有るんだろうかと考えた。
【不相伝の輩】【血脈にあらずんば知りがたき法門なり】と言うけれども、冷静に考えれば、貫主だけが相伝を承けた事になっていて、貫主だけが現代の日蓮大聖人で、生き仏
という考え方(実際の歴史事実は、血脈など断絶し、一器の水を一器にこぼさず、もらさず、汚さず、曲げず、伝えてきたというのは正資料からも嘘八百が証明されているのであります)つまり、貫主だけが甚深の法を承けた事になっていてその他の僧俗は相伝を承けていないのでありますから、その内容を全く知らないにもかかわらず、貫主に異議を唱える事なくオール丸投げの信伏随順する者は、相伝を承けている者となっているのであります。承けていないのに、承けていることになる。不相伝の輩なのに、相伝の輩になり、異議を唱えると、自動的に不相伝になる。という組織の仕組みであります。【日本人の両親のもとに生まれてきたから日本人】という単純明快な話で無く、複雑怪奇、魑魅魍魎、荒唐無稽、理解不能、都合の良い【忖度相伝】の考え方であります。僧侶も法華講の御信者さん達も、相伝を承けていません。相伝が何かも教えられていません。我々下々の者が、相伝などと恐れ多い事でありますと、洗脳によって身震いするほどになっている御信者さんでも、オール丸投げの信伏随順で、相伝を承けているという貫主の言う事に従っていれば相伝を承けている輩になっているという何の確かな実体も無い雲を掴むような不思議な考え方なのであります。
大石寺には、貫主の下に、能化という地位があります。貫主が任命するという建前ですが、基本的には、年功序列の最終ゴールであります。しかし、どれだけ法臘が永くとも貫主の意に添わない経歴の者は、この能化に任ぜられる事はありません。年功序列の最終御褒美、そして、長老に貫主絶対の防御壁とならせるという事なのであります。
現在大石寺には①藤本日潤②八木日照③佐藤日栄④土居崎日裕⑤高野日安⑥佐藤日学⑦船橋日謙⑧秋元日高⑨梶原日経⑩阿部日明⑪漆畑日実⑫水島日叡
の12人もいます。池田大作さんは副会長を何人も作り、プライドを慰撫し、かつ限りなく№2の意識を薄め特定の人間に集中しないで互いに牽制し合う様にする効果が生じ、長期安定政権維持が容易に出来た効果と同様であります。
しかし、能化となった者は、自分の寺院の所属信者には、【貫主の次に偉い人】【次期貫主】と宣伝する事が出来、家を出たはずの出家が、故郷に錦を飾り、家名を高め立身出世を武士の誉れとする様に、法衣に家紋を付けれるようになったと得意満面で喜ぶといった、日蓮大聖人の法を汚し、貶め、勘違いをしているのであります。その実体は、貫主より、年上か同年代の70歳80歳代で、次期貫主になったとしても、大石寺の丑寅勤行、諸法要、説法をこなし、改革、発展させていくエネルギーはほとんど無い、隠居職同様の地位なのであります。もし貫主になる野心がプンプンとあったとしても、貫主が譲ってくれるか、病気で寝た切りになるか、臨終を迎えるか、自分の持病と相談しながらの健康長寿サバイバルレースなのであります。この年功序列の象徴である能化長老世代の保守現状維持体勢の重鎮の厚い壁を破って若い世代の人材が出て来る可能性は遙かにゼロに等しいのであります。それでも能化は、【戒壇本尊絶対】と【血脈相承絶対】さえ言って、下手に真実の本音さえ言わなければ、慇懃無礼な尊敬を受けて臨終まで安泰なのであります。
出家した小僧から能化に至るまで、【上の者が黒いものでも白と言えば白】と言わなけ
ればいけない、【1日でも先輩なら、先輩が言う事が正しく、後輩は従わなければいけない】逆らってはいけない、異議を唱えれば鉄拳制裁は当然と正当化し、服従、屈従を骨の髄まで叩き込んで行くのであります。まるで、【軍隊】【ジャニーズ事務所】【宝塚歌劇団】の体質と同様であります。それは何故か、【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】を理論的に説明出来ないからであります。結果、服従、屈従を強いるしかないのであります。
日号が付いて、家紋法衣を着用し、年功序列の頂上の次席に至った満足感、新しい時代適用の改革革新の声の火消し役。忖度階層。大石寺の能化は、法を能動的に説くという能化本来の意味には程遠い、YesManの長老集団なのであります。
日逹上人は、能化の乱発はせず、№2と思われる存在を作らず、一人君臨していました。任じたとしても完全に隠居職的な年功序列の名誉職的なものでした。しかし、日逹上人が
同年代の、早瀬日慈さん、柿沼日明さん、千種日健さんと3人同時に能化に任じた時には、明らかに、この三人の中の誰かが次期貫主№2かと時代状況的にも、皆が色めき立つ様な雰囲気がありました。その中で、なったばかりの頃ですが、早瀬日慈さんが、法道院から出掛ける身支度の段取りが遅い事に腹を立てて「柿沼、千種に負けてしまうじゃないか。」と、口走った事がありました。「御戒壇様、血脈法水を頂く御法主上人を御守りするのが日蓮正宗の信仰であります。」と、どんな集まりでも常に判で押した様に、忠誠を誓う様に発言していました。これも【富士年表】不記載ですが、この年代に生きていた僧侶には衆知の事であります。昭和40年11月10日妙光寺に於いて行われた「第二回正本堂建設委員会」に於いて、池田大作氏が日逹上人より下座で、日逹上人の椅子には肘置きが付いているのに自分の椅子には付いていないという事に激怒し、柿沼広澄(日明以前)さんを吊し上げ、流会になった。その理不尽な横車を、動き出した正本堂建立事業を止めるわけにはいかないと、日逹上人は受け入れ、柿沼広澄さんを庇う事無く、一人責任を取らせる形で柿沼総監は辞任し、閑職の富士学林長となり、総監後任選びは池田大作を怒らせない者をと迷走し、昭和42年4月24日から早瀬道応(日慈以前)さんが総監を務める事となり、完全に大石寺と創価学会のパワーバランスは逆転し、池田大作の財力、権力をひけらかす我儘を容認し振り回されて行くのであります。ここから長く総監を務め、正本堂建立、国立戒壇問題、妙信講問題、妙縁寺問題、池田大作問題等々の調整に奔走していた為自分自身も充分№2の自負心があったと思います。しかし、政治力、調整力には二師より長けていましたが、教学力においては、他の二師に劣ることは周知の事実でありました。貫主となれば、政治力も大事ですが、法要、会合の度の説法は、ゴーストライターだけでは賄いきれるものではなく、若い時からの研鑽の蓄積がないと、説法の辻褄が合わず、揚げ足を取られ嘲笑されるということになってしまうのであります。
後年、日逹上人は、法道院の在勤者が、法華講員宅で、「日逹上人の写真を下ろして、主貫の写真を掲げるべきだ。」との発言を、とってつけた様なきっかけにして、長年の補完し合う信頼関係が崩壊し追い落とす様に冷めたものになって行き、日逹上人が亡くなる迄関係修復は戻らず、次期貫主の目は完全に無くなります。この一連の事件で、息子の早瀬義寬(日如以前)さんは改めて深く、父親でも擁護する事が出来ない、どんな事態であろうが貫主には絶対さからってはいけないものだ、どんな理不尽な事でも貫主絶対の権力の強大さを肝に銘じたはずであります。阿部信雄さんは、教学部長として、永年早瀬日慈さんとコンビで、永年創価学会と日逹上人の調整役を担って、早瀬日慈さんの三男早瀬義純さんは阿部信雄さんの長女と結婚し縁戚関係でもありました。しかし、阿部信雄さんも当然永い関係の中で、早瀬日慈さんに教学力が無く、混迷状態の宗門と創価学会の関係を乗り越えるだけの力量は無いと不安視していたはずであります。しかし、阿部信雄さん自身の教学力も、物知りというだけで【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】の御用教学の範疇から一歩も出ない、大石寺唯我独尊教学でしかないのであります。正本堂、国立戒壇問題の浅薄なその場しのぎの理論を構築したのも、阿部信雄さんであります。日逹上人が急逝し、阿部信雄さんが寸隙をぬって貫主を簒奪したのも、阿部信雄さん的には、大石寺を守るため、昭和53年4月15日に日逹上人から相承を承けたと言いながら、その日に双方はスケジュール上逢っていなかったという現実。当然法廷で時系列さえ証明することも出来ず、自ら訴訟を取り下げるという醜態をさらし、大石寺僧俗の中だけで、承けていなくても承けたと強引に主張し、「私が承けていないというならば、誰が承けたと言うんだ、言ってみろ。」と言う逆ギレの始末であり、歴史上、在位中これ程訴訟訴訟にまみれた貫主はいなかったのであります。本人は、最小限に混乱が拡大長期化しない様に大石寺組織を維持継続していかなければいけない、自分でなければ、【血脈相承絶対】を守ることが出来ない、自分なら日逹上人と違って、創価学会に信頼され、池田大作を押さえ服従させる事が出来るという過剰な自尊心があったのであります。
国立戒壇問題に伴う妙信講破門問題の中で、妙縁寺住職松本日仁能化を擯斥し裁判にかけ、妙縁寺から追い出すという、徹頭徹尾、血も涙も無く追い詰めた状況を見ても、貫主
だけが、一子相伝の生き仏であり、他が能化になったとしても、№2でもなんでもなく、相承相伝のかけらも伝えられていない事が良く分かるのであります。
私自身も、洗脳マインドコントロールにどっぷり浸かっていた時代には、自分が世間の不信謗法と判断した者に対しては【不相伝の輩】【相伝にあらずんば知りがたき法門】を振り回して、批判する者を蔑んでいました。しかし、冷静に考えると、自分自身も相伝のかけらも承けていないし、相伝が何かも知らされてもいない【不相伝の輩】【知りがたき輩】である事を自覚していなかったのであります。
【二箇の相承】は、遺言書であり、相承書であります。
一般に遺言書というものは、人が亡くなって、即座に公表されなければならないものであります。
日蓮大聖人の壱周忌三回忌に公表されたとしても、時間の経過によって、立ち戻れない状況変化があるため、まったく意味の無いものとなってしまうのであります。つまり、六老僧をはじめとして、葬送に参列した僧俗が、日蓮大聖人亡き後、どうあるべきか参集した人々が確認し、認識し、その内容を未来に向け実行すべきが遺言なのであります。秘密の遺言書というのは有り得ないのであります。
日蓮大聖人の葬送の導師は年功序列で日昭が勤めました。日興上人が相承を承けたならば、年功序列でなく日興上人が勤めなければいけないはずであります。日興上人が勤めていなかったということは、【二箇の相承】は無かったのであります。
ましてや、遺言書の受け手である、日興上人は、【二箇の相承】に何ら触れていません。日目上人も日道上人も日行上人も何ら触れていません。【二箇の相承】が存在するならば、日興上人は、何故五老僧に対し、私が承けた、私が正統であると権利の誇示しなかったのでしょうか。何故身延離山しなければならなかったのでしょうか。現実の歴史は【二箇の相承】の内容とかけ離れた展開になって行くのであります。という事は、【二箇の相承】は無かったのであります。
現在の大石寺は、【二箇の相承】【金口嫡々血脈相承】を主張するため【総付属】を否定し【別付属】を主張しています。日蓮大聖人の法は一切衆生平等成仏の法であります。森羅万象一閻浮提総与という総付属の法であります。他の者には渡さないで、おまえだけに渡すぞという様な差別を生む、秘密主義、選民思想、エリート思想、階級思想のもとに出来上がっているのでなく、逆に其れ等を否定して成り立っているのであります。
凡人は【秘密】【秘伝】【プレミアム】【限定】【特別】【選ばれし民】【貴方だけ、ここだけの話】【内緒話】【優遇】と表現すると、何か奥深い、取って置きの優越感を抱くのであります。
大石寺での小僧時代、幾人もの先輩から、「昔【御義口伝】は秘伝書で、僧侶でも上位のものしか見る事が出来なかったものだ、下位の者が見たら、目が潰れると言われるほど、尊いものだったんだ。」と言われました。いつの時代から、どういう事情で公開されるようになったか分かりませんが、先輩も受け売り受け売りで、何にも分からないのに、おまえら知らないだろうから、教えてやると自慢げに、見て来た事の様に言っていました。又、学林の授業ではカリキュラムの中に、天台の三大部【文句】【玄義】【止観】を入れているにもかかわらず、「【摩訶止観】はな、【馬鹿止観】と言ってな、変に勉強して賢くなると馬鹿になるから気をつけろよ。大石寺は、信の宗旨だからな。」と、よく言われました。秘伝を自慢し、探求される事におびえ、一体何故だろうと考えると、それは、【戒壇本尊絶対】と【血脈相承絶対】の胡散臭い権威を守る為の煙幕であるという事が良く分かるのであります。日蓮大聖人の法の正当性を証明し世界中の人に流布し納得して貰いたいと建前で言いながら、本音ではそういう考えなど全く無い秘密主義なのであります。
真言宗に於いても、【秘密経】だから勝れ、【顕経】だから劣るという、あからさまよりも、何かが有りそうだと思える【秘密】の方がありがたいと考える、単純幼稚な心理的発想で何の意味根拠も無い教義なのであります。つまり大石寺は、真言宗と同様の秘密教になってしまっているのであります。
禅宗に於いても、【拈華微笑】という、誰が言い出したか分からない偽書、
【傳説】【聯燈會要釈迦牟尼佛章】
「世尊霊山會上に在り。華を拈じり衆に示す。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云く。我に正法眼蔵有り、涅槃妙心、實相無相、微妙法門、不立文字、教外別傳、有り。摩訶迦葉に付嘱す。」古来の禅宗の人之を宗門第一の口實として彼宗以心傳心の根拠、一宗の大事となす。然るに此の事何の経に出で何人が之を傳ふるや、大蔵所収の経論に此事を記せず、
隋唐の宗匠に此事を言ふものなし、但唐の徳宗の末に金陵の沙門慧炬寶林傳を撰し、其の宗を誇大にす、其の中初めて此事を記す。(織田仏教大辞典1378p)
日蓮大聖人の親知らずか、虫歯が抜け落ちて、その歯に付いていた微量の肉が、何の栄養、水分摂取の方法も無いのに生存し、広宣流布の進み具合を察知して、増殖したり衰退したりして、1000年10000年100000年先の広宣流布の暁まで生きて、肉が歯を覆い尽くした暁には、鳩摩羅什の舌の様に光りを放つのであるという【御肉牙】が、大石寺の重要宝物としてあります。科学も医療も稚拙であった過去の時代ならば、有難いと、益々信じたでしょうが、この【御肉牙】が事実とすれば、凡夫のあるがまま無作の、十界互具成仏、一切衆生平等成仏の日蓮大聖人の法は否定されてしまうのであります。虫歯の肉が盛り上がるという科学医学の道理に叶わない異常な事が、本仏ならばあり得るだろうとまかり通るならば、それが一切衆生平等成仏の何の証になるのか、もし道理から外れた【御肉牙】が本当に存在するならば、何の意味、何の価値、何の証明なのだろうか。胡散臭いだけの奇跡話で、根こそぎ日蓮大聖人の法、一切衆生平等成仏の法を否定することになってしまうのであります。広宣流布は、今の生命から、次の生命へと間断無く繋がり循環して行く世の中で、法華経の行者の永遠の末法逆縁広布の目標であり、永続的に固定完成される順縁広布というゴールは無いのであります。
日興上人は、「いずくにも聖人の御義を立てまいらせる」と述べられ、「私だけが相承を承けた正統である。」とは、述べられていないのであります。
【日興遺誡置文】(学林6p)にも、
五人の立儀一一に先師の御弘通に違する事
と、示され、日蓮大聖人は全ての弟子に平等に法を教え伝えたが、日興上人以外の五老僧は、自ら日蓮大聖人の法から外れて行ったのであります。
つまり、日興上人、日目上人が身延離山をし、【いずくにても聖人の御義を立てまいらせる】と、開かれた大石寺には、【信】だけで良かったのであります。【信】という心ほど不確かに思われ、かつ確かなものはないのであります。【信】によってのみ成仏出来るのであります。相承書では成仏出来ないのであります。どんな相承書を承けても、凡夫の心変わりを止めることは出来ないのであります。ただひたすら法華経の行者として信行学に精進し【信】を貫くしかないのであります。誰かに保証して貰ったり、誰かを保証出来るものでは無いのであります。
刹那刹那に転変浮遊し続ける十界の生命を肯定し大前提にしている法門であるならば、相承書、相伝書で【信】の心を保証固定させることなど出来る訳が無いのであります。
眼に見えない、しかし一番確かな成仏の直道の根本である【信】では、世の中の人々に大石寺の正当性を視覚的に示せば、日蓮宗各派の中で、一番日蓮大聖人からの正統を継承していると訴える事が出来ると考え、6世日時上人の時代から嫡々と【二箇の相承】【戒壇本尊】【金口嫡々】【御肉牙】【不開門】【逆さ杉】等々を作り出して、唯我独尊、我田引水の大石寺に変質させてしまったのであります。これらに共通しているのは、全ていつ
の間にか忽然と、当然一級資料でない誰が書いたか分からなくした伝聞文書とか写し書文き書が表れて、その文書が、いつの間にか日蓮大聖人の存命中から有ったという胡散臭さをプンプンとさせながら、正しい法だから、その位の事は有るだろう、その位の事はまかり通るだろう、その文書だけで、水戸黄門の印籠の様に、皆をひれ伏させることが出来る権威と便利さが有る。として、重宝な伝家の宝刀として使われる様に、世に出て来るのであります。現代のように、文体、書体、筆跡、紙質、墨等々科学的検証も出来ない、伝聞文書、写し書き文書さえも、秘伝文書、相伝書に値するとして秘匿して、人々に公開しないわけですから、筆跡鑑定も見比べ確認も出来ない事を良い事に、それ等が大石寺の根本中心の教義の様に位置付けられ考えられて行くのであります。有ると主張し、見せない。文証、理証、現証と言いながら、文証を見せないのであります。
【戒壇本尊絶対】と主張し、世界広布を目的にしているのであるならば、戒壇本尊の裏の一部分を削って【放射性炭素年代測定】をし、弘安2年時代の楠で有るか否かを調べれば、【戒壇本尊絶対】は、揺るぎない真実となるわけですから、大石寺の主張が科学的に立証され、大石寺の言う信者倍増計画に拍車がかかるでありましょう。何故しないのでしょうか、それは、測定結果が違ったら、今まで頑迷に主張してきた全てが崩壊するからであります。崩壊する可能性が限りなく高い事を自覚しているから、測定出来ないで、信仰の世界だからと秘密の世界に閉じこもっているのであります。こんな単なる組織名聞名利の組織エゴ安泰法が、広宣流布されたならば世の中に魑魅魍魎の混迷を広めるだけで、森羅万象になんら一切衆生平等成仏の安穏を流布する邪魔になるだけなのであります。私が【放射性炭素年代測定】を考える位ですから、大石寺は現実には秘密裏に戒壇本尊の切れ端材である事を隠して実行していて、弘安2年時代の材質ではなかったので、最高機密として封印しているのかもしれません。【奉安堂】御宝前安置の【最初仏】も【北山本門寺】安置の【日蓮大聖人御影】も、同じ日法の作で、戒壇本尊の端材で作ったと伝承されていますから、この二つも【放射性炭素年代測定】をすれば、より確かに真実が明らかになり良い事だと思います。科学の道理を蔑む事は、宗教として間違った考え方であります。
昔から、大石寺貫主は、【相承箱】を先代から承け、後代に渡す、その【相承箱】に相承書、相承に関する文書が納められていると言われてきました。まことしやかに、その箱が有るように語られますが、誰も見たことはありません。そりゃあ貫主以外に見る人はいないのだから、誰も見たことが無くて当たり前だろうという理屈もありますが、そんな物は、おためごかしであって存在する訳が無いのであります。【信】しか無い日蓮大聖人の宗旨だから、【信】を文書で担保することなど出来ないのであります。
【日有師化儀抄】(40p)
信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、
日逹上人が急逝した際、阿部信雄さんは、大宣寺住職菅野慈雲さんに、「君何か聞いてないか。」と尋ねたそうであります。すると、菅野慈雲さんは、「いえ、教学部長さんが
聞いていらしたのでは。」と応え、阿部信雄さんは、誰にも確かな相承がされていなかった確証を得て、簒奪の決断をし、人払いをし、日逹上人住居の大奥をくまなく点検し、相承に関する物品を探したと伝えられています。当然相承箱等有るはずも無い訳で、自分が承けたと言えば、他に承けたと言う者は誰もいないだろうと高を括り、自分の過去のスケジュールも把握せず適当な昭和53年4月15日に承けたと内心怯えつつ宣言したのであります。何故かと言えば、阿部信雄自身も承けた事を証明する事が臨終を迎える迄出来なかったからであります。
大石寺は現在に至るまで、何度かの大火に見舞われてきました。大石寺の公式年表である【富士年表】を詳細に見ると、混乱の為か、故意にか、その大火の類焼状況が隠す様に記載されていないものがあります。
まず、正応元年12月16日の【原殿書】には、【御影】の言葉がありますから、日興上人は、身延期に御影様の造立をされていた事が分かります【日順雑集】(富要2巻95P)には、
「聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計いとして造り給ふ。御影を造らせ給ふ事も日興上人の御建立なり。」
と示されてありますから、間違いの無い事実であります。身延を離山するに当たって、大石寺へ遷座したとの文書はありませんから、身延の御宝前安置の御影とされたまま離れたものと推測されます。しかし、この御影様も身延大火で、焼失しています。
大石寺開山の早い段階で日蓮大聖人の御影を造立されたはずであります。これは、
【西御坊御返事】(継命新聞社刊「日興上人」245p)
聖人の御影の御寶前に申上げまいらせ候了
【西坊主御返事】(同書252p)
為孝養田一段御影の御見参に申上げまいらせて候。
【了性御房御返事】(同書279p)
いつれも聖人の御見参に入まいらせ候了。
※と、他にも多数散見されますので、開山早期に必須として造立され、日蓮大聖人が永遠常住生きておわしまし師弟共々の信行を自他共にされていた事が分かります。
1290正応3年10月13日
日興日目に法を付し本尊を授与(譲座本尊)
※近年、坂井法燁師の研究により、【譲座本尊】は日興上人の筆ではなく、明らかに日時(6世)上人の筆であることが解明されました。長年常識とされていた法門の再考が必要になっていますが、大石寺は頑迷に拒絶し、【不相伝の輩】を繰り返すだけなのであります。状況的に考えても大石寺開山より2年目の初期整備の渦中で、重須移転の構想も無いのであり、日興上人が中心者として差配している段階なのであります。日目上人と9ヶ年大石寺整備に心血を注ぎ、目鼻がついた段階なら理解出来ますが、この1290正応3年10月13日は、無理矢理な感があります。日時上人が血脈相承の次第を本尊を使って視覚化と
権威付けを企てたと思われます。戒壇本尊その物を相承の項目に入れるという、【本尊相承】も、日蓮大聖人、日興上人、日目上人、日道上人、日行上人等々にまったく文献が無いのでありますから。これも日時上人の発想と思われます。同様に譲座本尊を書いたとされている、日興上人、譲られた日目上人、双方に何の文書も示し残されてない事自体が、完璧に胡散臭い粗筋なのであります。
1624寛永元年11月15日
日就(16世)御影堂棟札に「本門戒壇堂」と記す
※ここに現在の大石寺の【戒壇本尊】を遷座、安置し常時参詣出来、究極の本尊、戒壇本尊が体で、他の本尊は影である。という支離滅裂な考え方が出来上がったのであります。
御影堂は御影堂では無く、戒壇堂になってしまったのであります。敬台院個人の供養で建立された御影堂を、天下人である徳川将軍からの御供養とすり替え拡大解釈し、葵の御紋を掲げありがたがり、天下人と繋がりが出来たと浮かれ、池田大作と同様【国立戒壇】と錯覚し舞い上がったのでしょう。
1631寛永8年7月12日
大石寺諸堂焼失
1652承応元年
日典20世となる。
※日典在位21年間、この間の何年目か分かりませんが大石寺大火焼失の事実。
この行状と同様、9年間日目上人と共に、大石寺の整備に心血を注いだ後、日興上人は、1298永仁6年2月15日重須に【日順雑集】(富要2巻127p)
三堂一時に造立すべきなり
三堂とは、本堂、御影堂、垂迹堂と推察しますが、建立して移ります。という事は、同時に日蓮大聖人御影も造立されているのであります。日興上人の【聖人の御義】とは、日蓮大聖人を末法の本仏導師として、永遠常住、常住此説法の生きておわします存在と共に己が法華経の行者として生きるという事だったのであります。ですから、日蓮大聖人の御影様は不可欠必須な存在だったのであります。
大石寺の御影様は腹籠の本尊が納められています。北山本門寺の御影様も同じ形態でなければならないはずであります。日興上人が十界互具の己心の仏界を顕わした本尊を仏性として納める形に表現したのですが、身延日蓮宗池上本門寺安置の祖師像は日蓮大聖人第七回忌を期して造立されたものですので、一番日蓮大聖人の姿に近いのではないかと世間では言われています。しかし、現在は残っていませんが、文献によれば、一番早く造立された御影様は、日興上人が造立された御影様なのであります。そして、顔形の様相より何よりも、池上本門寺安置の祖師像を始めとして、身延日蓮宗系の祖師像には、腹篭本尊が無いという事なのであります。つまり、御影様に対する法門的発想と向き合う考え方が、釈尊在世、正法時代1000年像法時代1000年の釈尊本仏を末法にも当てはめていこうとの法門を立てる身延日蓮宗系の考え方と、末法の本仏日蓮大聖人という、日興門流大石寺の
考え方が根本的に違うという事なのであります。その事が祖師像と御影様の根本的違いとして腹篭本尊に如実に示されているのであります。
大石寺開山と時を同じくして、日興上人は日蓮大聖人の御影様を造り御安置しています。しかし、その御影様は現在ありません。という事は、大火によって焼失しているという事であります。その後当然早急に御影様の復刻はされたはずでありますが、その事も【富士年表】には不記載であります。しかし、現在の御影堂御安置の日蓮大聖人御影様は、1388年第6世日時上人造立であります。この長期の間、必須の御影様が無かったという事は考えられないのであります。
(富要1巻377p)には
「又又当山念珠の御相伝三通之有り、目師御筆、道師御筆、道師目録之有り、然る処に十八代日精上人御代之を失ふと見へたり日舜(19世)上人精師在府の砌仰せ越され候へば長持の中に之有るべき由仰せ越し候へども之無しと見へたり、たとへ之れ有るも日典(20世)上人御代に大坊焼失の砌り焼け失せたる者か、故に今御目録十七条のみ之れ有り御相伝悉皆失ふ故、日忍(21世)上人、日俊(22世)上人已来数珠相伝に当山の相伝之れを失ふ故に要法寺日大(要法寺6世)上人叡山相伝之れ有り、喜はしい哉。大衆方正法を守ると云へども近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因(31世)之を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ、一には日主(14世)上人の立行関東奥方に残り伝はる故、二には当山古老僧皆之れを伝ふる故、三には当山日目上人の相伝悉く房州保田に有る故、四には要法寺二代(要法寺は、1日蓮大聖人2日興上人3日目上人4日尊上人とし、5日印6日大の順を歴代として数えるが、日因上人は、1日印2日大から要法寺流に変質したと判断する為、日大を二代と表現している。)日大叡山相伝当山に伝ふ、故に
知ぬ近代上人方、要法寺日大の邪法に附するのみ。
と、示されてあるにもかかわらず、【富士年表】には、この大火焼失の記載が無いのであります。当然、数珠に関する相伝書だけが焼失したのでなく、「御相伝皆悉く失う」実情であり、御宝蔵や、御影堂、客殿、貫主の居宅に至るまで焼失した大火であった訳であります。しかし、相伝書と言えども、「長持」に納められていたという事は、貫主一人のものでは無く大石寺全体に独自の伝承されるべき化法、化儀のあり方と意味、意義、姿、理由等が目師、道師等の筆によって示されていたという事が文章から分かるのであります。いわゆる相承箱であります。当然小さな箱に巻物一本等に、忍者や剣術の免許皆伝奥義言及という様な物が有る訳がないし、貫主一人を特別視する様な文書が、一切衆生平等成仏を説く大石寺において有る訳が無いのであります。事実この御文には、過去の貫主を生き仏どころではなく、徹底的に批判、否定しているのであります。
1385元中2年10月13日
日時(6世)御影堂、御影造立
※これは【富士年表】不記載になっています。
日興上人大石寺開山期に造立された御影様が存在していないという事は、開山期から135
8年迄の間に、大火焼失があったはずですが、その事の記載は【富士年表】には無いのであります。
1332年5月1日南条時光が亡くなられます。
1333元弘3年(正慶2年)2月7日日興上人が亡くなられます。
同年11月15日日目上人が亡くなられます。
※まさしく同時期に大石寺開山に関わる重要な三人が次々に喪われるといった状況になります。大石寺にとって、羅針盤を失うような事態になってしまいます。これも資料が無い為か【富士年表】不記載ですので、推測するに、日興上人が亡くなって即座に日目上人は日興上人の御影様を造立されたはずであります。そして、文献は残っていませんが、後世の大石寺の歴史を見たときに、日目上人は当然弟子達に、御影様は日興上人迄で、自分も後の貫主も絶対に造立してはならないと固く誡めたはずであります。事実どれだけ中興の祖と崇められる歴代とか、権勢を誇った貫主でも、日目上人、日有上人等は掛け軸にした絵像はありますが、誰一人として御影像は無いのであります。大石寺以外の日蓮系各派には数え切れないほど造立されているのであります。此の事は、いかに富士門流における御本尊と日蓮大聖人御影、日興上人御影の三体は、単なる思慕の想いからでは無く、法門の根幹を成す主要として安置されているのであります。発想の根幹がまったく違う事を理解しなければいけない訳であります。此の事からも、大石寺歴代を今日蓮、生き仏と考える事は、富士門流法門の根幹から逸脱する、とんでもない完全な謗法である事が良く分かるのであります。
1388元中5年10月13日
日時日蓮大聖人御影造立(越後法橋快慶作)
※この御影様が現在の御影堂安置の御影様であります。何故1358元中2年10月13日の御影様が安置されているのに、わずか3年後に、又御影様を造立されたのか、不記載の火災があったのか、有名仏師、越後法橋快慶作に飛びついたのか、いずれにしても1358年の御
影様をどうしたのか、これも【富士年表】不記載であります。
1465寬正6年2月
日有大石寺御寶蔵を小校倉造に改む
3月客殿を創建す。
※と【富士年表】にあります。ではこれ以前の御寶蔵は、どうであったかが不記載で分かりませんが、現在の大石寺御寶蔵は分厚い土壁の蔵造りです。これは大火焼失の反省を踏まえて防火と盗難に備えて建築したであろうという事が分かります。日有上人の建てられた校倉造は、火災や盗難の事は一切考えず、文書の湿気対策だけを考えた保管庫としての建物であったことがわかります。
3月の客殿創建という【創建】は、常識的に考えれば、初めてという事でそれ以前に客殿は無かったという事になりますが、御影の造立が並記されていないという事は、どれほどの規模の客殿か分かりませんが、これ以前に客殿と呼ぶか呼ばないかはともかく、本尊、
日蓮大聖人、日興上人(客殿式安置)の客殿的用途をなす建物が存在していたことは確かだと推察されます。客殿創建に合わせて日蓮大聖人、日興上人の御影様の記述が無いという事は、以前からの御影様をそのまま遷座し安置したという事ではないかと考えられます。
1522永正2年
日鎮(12世)大石寺御影堂、総門等を建立し結構を整う
※1465から57年経過しているので修復ではなく、新築をしたのではないか?もしくは火災があったか?
1631寛永8年7月12日
大石寺諸堂焼失
1652承応元年
日典20世となる。
※日典在位21年間、この期間に大石寺は焼失し、相承に関する文献悉く焼失(富要1巻377p)【富士年表】には不記載。しかし、現在の御影堂安置の1338元中5年10月13日日蓮大聖人御影は守られ現在に至る。
1658万治元年
客殿日興上人御影様2月造立。日蓮大聖人御影様10月造立。
【富士年表】には、1660万治3年10月日精大石寺客殿安置大聖人造立す(像銘)
とありますが、能勢順道師が直視して編纂された【諸記録】1巻50p51pには、日興上人御影万治三年庚子卯月(4月)仏生日。日蓮大聖人生御影一躰万治三年庚子十月吉祥とあり、これが現在の客殿安置の両御影様ですので、【富士年表】の記載は間違いという事になります。
これも【諸記録】1巻4pに、御影堂安置本尊は、「聖筆本尊模刻し下部に精師添書す、1679延宝7年2月13日」とあります。戒壇本尊を安置し、御影堂を【本門戒壇堂】と称したにもかかわらず、人知れず戒壇本尊を御寶蔵に戻し、違う日蓮大聖人の模刻本尊にすり替え、【本門戒壇堂】とは言わなくなったという事であります。実に不可解な歴史であります。
現在【本門戒壇本尊】と称している本尊も、始めは【弘安二年の本尊】と呼ばれていました。弘安三年三月 日須津庄窪住持日伝授与の【御身代わり御本尊】も何故か後年【紫宸殿本尊】と呼ぶように変質して行きます。【戒壇本尊】は、授与弥四郎国重という個人で、国家を代表する立場の人間でも何でも無いし、四条金吾、富木入道、南条時光等々に比類する人物で無く、戒壇本尊だけに突然表示される名前であります。苦肉の説に、日蓮大聖人自身が俗人の名前を借りたとの、珍説を述べる輩もいますが、日蓮大聖人が自分宛に本尊を顕わし、未来国立戒壇建立を希望する等、理論的に破綻しているのであります。【国立戒壇堂】に安置する本尊だと主張する事は矛盾であります。
貫主になる前の阿部信雄さんが、自分の知り得ている事をひけらかし語った内容を河辺慈篤さんが記録した【河辺メモ】 一、戒壇御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
種々の方法筆跡鑑定の結果解った(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
御題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
頃の筆だ、
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
一、G(猊下の事)は話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだろうと云う安易な考えを持っている。
※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの(弘安三年の御本尊)
とのメモにある通りの事が【戒壇本尊】の真実なのであります。日応上人が、何らかの理由で流失した【日禅授与の本尊】を手に入れます。その後長年、法道院に厳封されていました。私が法道院へ在勤していた時、通常寺院にまつわる寺宝が厳護されている場合、一年に一度風通しの意味合いもあり、御虫払いの法要を執り行い、御信者さんに公開するのですが、法道院の場合は、御宝蔵が有るにもかかわらず、まったく不開の御宝蔵でありました。振り返って考えれば、それは、封印しておかなければならない【日禅授与の本尊】が納められていたからであります。しかし、法道院が新築する時に、敷地内全部の建物をを解体する折に、大石寺に納められ、現在は大石寺の御宝蔵に納められています。その事を、教学部長であった阿部信雄さんは、当然立ち会い目の当たりにしていたのであります。写真を見比べたり、ネガを重ね合わさなくとも、一目瞭然【戒壇本尊】その物である事を確認します。そして、正本堂建立に際して、【戒壇本尊】は、御開扉休止となり、その間に赤沢朝暘から技術者に出張して貰い、奉安殿の中で【戒壇本尊】の修復、御色直しが行われました。これは、そこに立ち会った関係者から聞かされた事ですが、【戒壇本尊】の花押の下部の向かって右から【右為現当二世/建立如件/本門戒壇之/弥四郎/願主/国重/敬/法華講衆等/白/十月/弘安二年/十二日】の文字は、日蓮大聖人の字体では無く他筆で、金箔を入れない黒漆のままで伏せ字にされているのでありました。まさしく【日禅授与の本尊】を模刻し、下部文字を加筆し【戒壇本尊】に仕立てられた。つまり【河辺メモ】【阿部信雄発言】のままなのであります。阿部信雄さんは、簒奪貫主になって、自分が当事者になると、慌てて一度開いたパンドラの箱の蓋を河辺慈篤さんと共に口裏を合わせ否定し、元の様に閉じて【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】の旧態依然の保身に立ち回ったのであります。しかし、【覆水盆に返らず】で、自ら【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】
を否定した正直な事実は二度と戻し隠す事は出来ないし、「Gは話にならない」と言ったその信頼関係が破綻していた【G】から相承を承けたと横車を押し簒奪した愚かな事実は死んでも残る真実なのであります。六百年数十年、信仰者を騙して来た【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】を二人で破壊し暴露し、正常に戻そうとしてくれた。昭和53年2月7日帝国ホテルにて、日興上人御正当会(芹御講)の日に、東京常泉寺住職、札幌日正寺住職という二人が、常泉寺の客間でも充分なものを、万が一にでも、茶出しの在勤者の耳にさえも触れないよう、わざわざ帝国ホテルにてメモ取りを承知の上で密談したという事は、正信覚醒運動の対応に当たって、阿部師は日逹上人との信頼関係が破綻し、破れかぶれ状態、河辺師は他人が知らない裏話を知りたいという人一倍強い性格の表れであります。メモと称されていますが、走り書き、乱れ書き、盗み書きではなく、しっかりした字体で書かれているという事は二人が納得した上での事であり、話の流れでそうなったではなく、事前に此のテーマに絞って話す事を計画した上での確信犯であります。しかし、後世に真実を知り伝えたい者にとっては、【富士の立義】に改復させる為に、真実を語らせ、二人の微かに残る信仰心の背中を押してくれたのではないかと思うのであります。後日、阿部師が簒奪貫主になってからの平成11年(1999)7月7日創価学会の【同盟通信】に河辺メモが掲載され混乱に陥ります。あわてて、平成11年(1999)8月16日【河辺慈篤師からのお詫びと証言】を出し、「私の記録ミス」とごまかし、追いかけ、同年9月18日【御法主日顕上人猊下御指南】を出し、口裏を合わせ幕引きをしようとします。そして、河辺師を新宿大願寺住職に赴任させ、論功と今後一切死ぬまで喋らない事を約束させたのでありましょう。しかし、このメモが創価学会から出て来るという事が不可解な点であります。簡単に在勤者に盗まれる様な所に保管していたとは考えにくいので、河辺師が正真覚醒運動の行き着く先が不透明である事から、創価学会に保険を掛けていた事も一つの仮定として否定出来ないのであります。
私は河辺師が徳島敬台寺住職だった時に、一年在勤させて頂いた重恩が有りますが、河辺師が72歳で亡くなった同じ歳を迎えた現在、何故河辺師も出家でありながら、名聞名利、立身出世欲に、自己の存在価値判断をされたのかが理解出来ないのであります。私は少しでも多くの人に日蓮大聖人の一切衆生平等成仏の法を縁せしめたいという願いと責任と使命が、縁あって出家した自分の存在価値判断だと思っています。
この会談内容は、貫主簒奪後に、露呈される訳ですが、昭和53年2月7日「Gは話にならない。」と言っていたGから、阿部師は昭和53年4月15日の二ヶ月後に相承を受けたと主張したのであります。大した厚顔無恥の卑しさは、自分ならきっとうまく池田大作を平伏させることが出来るという底なしの自己顕示欲、権力欲の慢心があったからこその事だと思います。
阿部日顯さんは、単なる池田憎しだけではなく、正本堂建立の為、自分が大きな片棒を担いで来た、その足跡を破棄したいが為に、正本堂を破壊するという異常な狂気行動をするわけでありますが、その事は反して【戒壇本尊の真実】を語り虚構を破壊した事実は、正常な行動で、立派な功績であると後世の一切衆生から高く賞賛されると想います。
このようにして【敵を欺くためには、まず味方から】大石寺の多くの僧俗を騙して【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】を成り立たせているのであります。【依法不依人】の信仰を掲げる者が、【依人不依法】に立ち回る醜さを露呈したのであります。例えば、世の中の【古生物学】【考古学】【歴史学】等々に於いては、発掘調査から一片の事実が出て来れば、100年200年の常識も、権威とされてきた教授の学説も、一瞬にして歴史が覆ってしまうのであります。それが【依法不依人】という事実なのであります。宗教の世界こそ、真理に対して、こうでなければいけないはずであります。組織、経済、権威、無謬等々を守る為には真理をないがしろにする。そんな物を広宣流布して、何の意味が有るのかを良く考えなければいけないのであります。
【紫宸殿本尊】の授与も日伝個人であり、日伝は紫宸殿には何の関係もありません。紫宸殿は、朝廷内の内裏の正殿で、即位、朝賀などの公式儀式を行う建築物です。紫宸殿中央中心には、天皇の即位の折に、盛んに報道され映像が流れた【高御座】が位置し、天皇現人神の形態を表わしているのであります。本尊奉掲の余地は無いのであります。個人授与の本尊を、歪んだ世界観、広布観で、本尊に名付け、さもありなんという偏向誘導と、最初から、そうであったであろうと思わせて変質させて行くのであります。
日蓮大聖人は、王政復興を目的に法を説いてはいないのであります。
1683天和3年11月5日18世日精上人が亡くなります。同年12月下旬日寬江戸下谷常在寺日永の室に入る19歳
として、完全に人格形成が出来てから、日寬上人は出家し、出家当初から、それまでに出来上がってしまっていた【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】を当然の事として、洗脳され受け入れているのであります。
1706宝永3年6月15日日永大石寺客殿本尊を刻す。
とあり、それまでは紙幅の掛け軸本尊であった事が分かります。という事は、日永上人も、日興上人筆の本尊という言い伝えを信じ込んで、板本尊にしたという事が分かります。
加えて、この元禄時代になって各宗が紙幅本尊を模刻本尊(木彫黒漆金文字)にする
事が天下の平和安定を背景に流行流布して行きます。当然鎌倉時代には無かった文化であります。この事からも、【戒壇本尊】が初めから木彫黒漆金文字と姿、怪力百貫坊が身延離山の折り、【戒壇本尊】を担いで南条時光邸に運んだという事は、当時の仏教文化の背景からも、時代考証を無視した無理矢理な解釈と言えるのであります。
【相承箱】も【御肉牙】と同様、胡散臭く奥深い煙幕で、信仰者を煙に巻いて納得さ
せる効果絶大の、無いのに有るかの様に伝聞される小道具としてまことしやかに存在する品目でありますが、法を正しく守り流布する為では無く、自分達の威厳と地位と権威を守る為に悪用されて来たのであります。まさしく、【幽霊の正体見たり枯れ尾花】であります。
何という本に収録されていたか失念しましたが、老僧の思い出話エッセイを読んで、感じたことがあります。その文章は、私の記憶を紡いで書くと、こんな内容でした。
昭和40年代だと推察します。どういう理由か分かりませんが、状況場面から想像するに北海道か九州での新寺建立入仏法要の為、日逹上人はじめ、総監、教学部長、庶務部長等々の役僧一同が、同じ飛行機に乗るという場面がありました。その時、エッセイの筆者も同乗していて、日逹上人に、話し掛けたという内容ですから、その人も日逹上人の隣に座る程、高位の方だと思います。その方が、日逹上人に、
「この飛行機が墜落したら御相承が大変な事になってしまいますね。」と話したところ、「それは、ちゃんとしているから大丈夫だ。」と、応えられた。ああ心配ないようにちゃんとされているんだな、と思った。
という内容でした。
【貫主が突然死、事故死、病死、したら相承は断絶し無くなり日蓮大聖人の法は無くなる】
【戒壇本尊が無くなったら日蓮大聖人の法は無くなる】
現代の大石寺が主張する法門は、こうなっています。現実に、日逹上人が心臓疾患で突然亡くなり、「ちゃんとしているから大丈夫だ。」は空しいものになり、混乱と簒奪が生じたのであります。
妙法蓮華経の法は、日蓮大聖人が娑婆世界に現われる以前、宇宙が形成される以前から、生物が存在する以前から、全ての生命と共に、全ての生命に貫かれた法として本然として存在しているのであります。誰かが創ったものでは無いのであります。仏は、その本然の南無妙法蓮華経の法を、一切衆生に魁けて悟り、一切衆生に成仏の手本として、一切衆生平等成仏へ權経、方便の教えから始め、全ての生命に仏の生命が具わり、全ての生命は仏に成ることが出来ると唯一説かれている法華経へ導く師の立場と成るのであります。どんな事が起ころうが、【法】が無くなるわけが無いのであります。
【薬王菩薩本事品第23】(開結604p)
善い哉善い哉善男子、汝能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。所得の福徳無量無辺なり。火も焼くこと能わず、水も漂すこと能わじ。汝が功徳は、千仏共に説きたもうとも尽さしむること能わじ。汝今已に能く諸
の魔賊を破し、生死の軍を壊し、諸余の怨敵皆悉く摧滅せり。善男子、百千の諸仏、神通力を以って、共に汝を守護したもう。
この【火不能焼、水不能漂】とは、妙法蓮華経の法であって、【戒壇本尊】や【相承】という物体では無い事を示されているのであります。3000塵点劫、500塵点劫、地涌の菩薩、四菩薩、何も身分を証明する、授かった、所持物体は無いのであります。信じ行ずる振る舞いのみなのであります。
例えば、本者の水戸黄門だから葵の御紋の印籠を持っている。しかし、本者の水戸黄門が印籠を盗まれるか落として紛失する。本者の水戸黄門なのに、本者の水戸黄門だという事を証明出来ないで、本者なのに、本者の水戸黄門をかたる不届きな偽者の水戸黄門という事になります。そして、印籠を手に入れた偽者が本者の水戸黄門という事になるのであります。人間よりも印籠を持っているか、いないかが大事になってしまうのであります。【相承】を【物】と捉えるとは、この様な愚かな事なのであります。
日興遺誡置文(学林13p)
時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事。
当然、【貫主絶対】では無く、当然貫主も、十界互具の凡夫であり、貫主になった後に、仏法に相違する心を抱く事が有り得ることを明示されているのであります。故に、大石寺の【貫主絶対生き仏】の考え方そのものが、組織的集団洗脳【己義】なのであります。御金や物品を介する請求書、受領書、権利書、保証書等々は、契約に於いて、此れ等の書類が絶対の証拠となり、全ての判断になります。その人の人格、心がどうであろうが関係無く、書類の内容が全てであります。しかし【信】は、御金や物品では無く、【心】【成仏】であります。どれ程【相承書】という証明書があったとしても、【信】【成仏】を生涯永遠に保証出来る【物】は無いという事なのであります。
本尊が盗まれようが、焼かれようが、本尊の紙、木が腐食菌に冒され腐ろうが、水に流され行方不明になろうが、灰燼に帰しても、本尊に写された【南無妙法蓮華経】の法は、無くならないのであります。末法萬年、永遠に存在し耐え得るものは、物では無く、【法】への【信】なのであります。守護するとは、頑丈な建物、金庫に保管したり、ガードマン、セキュリーティーシステムを強固にすることではなく、【信心】によって【法を受持】することなのであります。【相伝】とは、その事を、末法萬年、永遠に伝え、森羅万象の生命に縁せしめ、逆縁広宣流布して行く事なのであります。
日蓮大聖人が【上行菩薩の再誕】【常不軽菩薩の後を継ぐ】末法萬年の本仏導師として、私達一切衆生に身を以て示してくれた、一切衆生平等成仏の法【南無妙法蓮華経】とは、
【どんな生命にも、平等に南無妙法蓮華経の仏性が具わり、どんな生命も仏に成る資格が有る。仏に成る為には南無妙法蓮華経の信行に日蓮大聖人を手本として、法華経の行者として励み貫く事】
これ以上の【血脈相承】が有るでしょうか。大石寺のいう【戒壇本尊】【血脈相承】は、【血脈相承】でも【相伝】でも無い組織維持、権威、権力、名聞名利、面子維持の為の【物】に過ぎないのであります。
【相承】を物体と頑迷に執着する現代の大石寺こそが、真実の【信】という【相伝】から外れる【不相伝の輩】【血脈外れ】の外道なのであります。
創価学会の池田大作さんの様に、人物を中心とした、そのカリスマに依れば、時代の条件も加味され、一代で社会現象とも言える爆発的な組織拡大を産む事が出来るでしょう。しかし、日蓮大聖人の法は、あくまでも、人物中心でなく【依法不依人】の法が中心なのであります。人物中心にしてはいけないのであります。人物中心にすれば、必ず法は穢れ曲がります。大石寺も創価学会と同様、代々の貫主を今日蓮とし、生き仏にし、その貫主の人間性に天性のカリスマが無くても、無理矢理にカリスマが有るかの様に仕立てて、人間中心のピラミッド組織安泰を目指して来たのであります。貫主に差し出す御供養には、熨斗袋の正面に御供養と書き、向かって右方に【奉】と書き加える事が常識化しています。御本尊様に御供えする御供養には、御供養だけであります。逆ならば理解出来ますが、これを貫主自身が誡めない、止めないで気分が良いのか慣行として続けているのであります。又、大石寺では貫主の事を【法主】と呼びます。【法主】とは法の主ですから、日蓮大聖人以外には無いはずなのでありますが、これまた気分が良いのか恥ずかしげも無く平気で慣行としています。
【法燈】第二集(365p)に石川広覚師が、
明治廿一年のいわゆる興門派から出されている興門導会雑誌を見ると、日蓮宗一致派が宗務院総会議において、官長の名をやめて大法主と称する旨が論議されたことが報道されている。そして次の号には、「大法主の名義」と題して、この一件について興門派の意見が述べられている。
「一致派にては官長の名称をやめ、大法主とする由見えたるが・・・本派にては・・・本因妙に『仏は塾脱の教主・・・某は下種の法主なり』と見え・・・法主さえ尚恐れあるべし、況んや大の字を加えしにおいておや」
この記事によって、少なくともこの頃までは、当家では貫主を法主と呼ぶ習慣はなかったことが分かる。しかし、この時期を境に、まもなく当家においても貫主を法主と呼ぶようになってくる。
この様に示されています。相手を批判しながら、そっちが【法主】と呼ぶなら、こっちの方がもっと【法主】だという、くだらない張り合いで、ミイラ取りがミイラになって本来の法門から外れて行くのであります。絵柄綾織りの袈裟衣も、色指貫も、同様の類型なのであります。こんな事さえ改める事が出来ないのであります。
大石寺の考え方では、貫主は絶対の生き仏ですから過去の貫主の誤りを否定する事が出来ません。釈尊本仏の教義を大石寺に定着させようとした日精上人も否定出来ないのであります。阿部日顕さんに「日精上人の釈迦本尊は間違っているではないですか。」と尋ね
ると、「おまえ等には分からない甚々の意味があるんだ。」と、自分もその時代に生きて見て来た様な苦し紛れの返答をしていました。肯定肯定を繰り返していけば、隠蔽を重ね限りなく日蓮大聖人の法から曲り、挙げ句の果てには逸脱して行くのであります。【法水】とは、時代、権力、貧困等々に翻弄され危うくなった時、先代貫主から引次ぐのでは無く、日蓮大聖人、日興上人、日目上人の三祖の時代に立ち返って、本来の法門はどうあるべきかの、濁りの無い、毒混入の無い依法不依人の【法水】を汲んで来るのであります。そうする事が【血脈】であります。故に大石寺が言う【金口嫡々】【一器の水を一器に】は代々の貫主生き仏論を肯定誇張する為の謗法粉飾欺瞞表現なのであります。絶対権力者は絶対に腐敗するのであります。十界互具の絶対でない不完全な凡夫が絶対者の振りをするわけですから、はじめから腐敗しているのであります。
日興上人の御墓は、北山本門寺に有ります。日目上人の御墓は下之坊に有ります。代々の貫主が今日蓮ならば、戒壇本尊が安置されているという大石寺に、三祖である日蓮大聖人、日興上人、日目上人の墓が無い。日興上人は生前自ら、晩年35年生活された重須談所に墓を建ててくれと言い残されたからこそ建立されているのでしょう。日目上人も生前自ら、身延離山して南条時光の屋敷内で生活が始まり、大石が原に通いながら開拓した日々の忘れがたい想いから、下之坊に墓を建ててくれと言い残されたのでしょう。大石寺の【貫主本仏】の理屈からすれば、大石寺に墓がなければならないはずであります。大石寺を霊山と表現し戒壇本尊絶対根本、貫主絶対等という事を、日興上人、日目上人は考えていなかったという事なのであります。
【有師談諸聞書】(富要2巻146p)
堂舎僧坊は仏法に非ず又知恵才覚も仏法に非ず多人数も仏法に非ず・堂舎が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非るなり、仍て信心無二にして筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなりと已上。
日有上人の時代に、【二箇の相承】が伝わっていたならば、この様な教示はせず、【血脈相承】の如しとの断言で終わっているはずであります。眼に見えない【仏法】【信】を教示し誡められているのであります。当然【相承書】も仏法に非ずなのであります。
まさしく、創価学会は勿論の事、大石寺も日有上人が誡められている【物】を求めているのであります。【法】【信】を伝えて行く事こそ本当の【相承】なのであります。
【日興遺誡置文】(富士学林5p)
富士の流義聊も先師の御弘通に違せざる事。
岩本の実相寺での出会いから、出家し直し、伊豆伊東流罪、松葉谷法難、龍ノ口法難、佐渡流罪、身延入山に添い、生涯寝食を共にして、日蓮大聖人の法を学んだ日興上人に、保証書、権利書の様に言われる【二箇の相承】は必要無いのであります。六老僧はじめ全ての弟子に、日蓮大聖人は平等に法を説き伝えたのであります。その中で、日興上人だけが、【信心無二】【先師の御弘通】の通り信行し、次世代の龍象に眼に見えない日蓮大聖
人の【法】への【信行】を説き伝えたのであります。
妙密上人御消息(全1239p)
日蓮は何れの宗の元祖にも非ず、又末葉にも非ず。
【一切衆生平等成仏】の【未曾有】の法だからこそ、
元祖にも非ず、末葉にも非ず。
と、明示されているのであります。
私達は、宗派として【日蓮正宗】と便宜上看板を掲げ名乗っていますが、日蓮大聖人は我宗意識、門派意識、流れを汲み、流れの正当性を誇示し、擦り寄る末葉意識も無く、三世常住、森羅万象の全ての生命の根源である、妙法蓮華経の法を本尊に写し顕わし、この本尊を根本としての【信】のみを成仏の要諦として示されたのであります。物体、形態の【相承】【血脈】を表わす必要は皆無なのであります。
ですから【相伝】する法も、逆縁広宣流布する【南無妙法蓮華経】の法も、まったく同じ法でなければいけないであります。
【物】に拘泥し、【物】を【信】と頑迷に主張する大石寺こそが【不相伝の輩】なのであります。
大石寺僧俗は、この矛盾に満ち破綻している【戒壇本尊絶対】と【血脈相承絶対】の伝家の宝刀?にしがみつくことを、他から理論的どれだけ否定され、世界中から軽蔑されても止めないでしょう。何百年と便利に使って盲信していた物を手放す訳が無いのであります。指摘されればされる程、しがみつき喚き散らすか、ハリネズミの様に針を立て同じ場所に、じっとうずくまり、時が過ぎ、記憶する者がいなくなるのを待つだけでありましょう。
こんな【物】が広宣流布して何になるのでしょうか。代々の貫主は、【戒壇本尊】が【授与日禅の本尊】から模刻した物である事を、阿部信雄さん同様に知っているにもかかわらず、【戒壇本尊絶対】と言い張り、合わせて700年の時間の中で血脈相承は紆余曲折断絶を繰り返している事が文献によって明らかになっているにもかかわらず、【血脈相承絶対】と言い続けているのであります。この【戒壇本尊絶対】と【血脈相承絶対】の二つを広宣流布して、【一切衆生平等成仏】の日蓮大聖人の法が逆縁広宣流布と言えるでしょうか。【戒壇本尊絶対】と【血脈相承絶対】は、【元祖】【末葉】意識そのものであり、組織と権威、面子の維持だけを目的にしているに過ぎないのであります。自分達の対面を守ることが、日蓮大聖人の法を守ることになるとの価値判断で次々と隠蔽を重ねて行こうとするしているのであります。世界は、長い歴史の中で隠蔽されてきた事象が次々と白日の下にさらされて来ています。イスラエル戦争も身近で云えば、自民党のキックバック政治資金問題、30年来のダイハツ工業の不正問題、自衛隊のセクハラ問題、ジャニー喜多川の児童性虐待問題、宝塚歌劇団特異パワハラ体質問題等々長年常識とされて来た事柄が、ボロボロになった袋が劣化し破れ、中味が晒される様に次々と明らかにされています。真実ならば白日の下にさらされても、何ら恥じること無く一切衆生平等成仏の真実であります。
隠蔽するという事は、真実では無いと言うことなのであります。真実でないものは、広宣流布されてはいけないのであります。一切衆生平等不成仏へ迷わせるだけなのであります。大石寺の【戒壇本尊絶対】【血脈相承絶対】の隠蔽のボロボロになった袋も、まず阿部日顯さんが先頭に立って破ってくれ、微かに日蓮大聖人の法を信仰する人々の未来を示してくれました。
どうしたら大石寺僧俗は目覚められるのでしょうか。それは、日蓮大聖人の法を信仰する一人一人が、大石寺に所属していれば【相伝の輩】だという組織信仰の安心感安定感の錯覚の夢から覚め、日蓮大聖人の法とは何か、【成仏】とは何かを求め【集団催眠】【自己催眠】から自分自身が信心の自立をはかり、勇気を出し自力で目覚めるしか道は無いので有ります。
2024/1/15