広宣流布なんか出来る訳が無い

広宣流布なんか出来る訳が無い    廣 田 賴 道    
  
営業マン3年目のB君、身体になじんで来たスーツ姿で御寺へ何の前触れも無く尋ねて来た。
 B君はAさん夫婦の長男で、Aさん夫婦は創価学会二世同士で結婚をする前後に創価学会の謗法問題が起き、Aさん主人とAさん奥さんの双方の両親が一緒に、正しい本当の日蓮大聖人の信仰をしたいと、創価学会を脱会し、結婚式を挙げる時には福山布教所(三寶院の開所時名称)の法華講員として、布教所で結婚式を行い、新婚生活と共に、御講、御経日、御題目講と、仕事に重ならない限り、夫婦で参詣され、創価学会時代に教え込まれた、現世利益の信仰観を払拭しようと精進され、色々な試練を乗り越えて現在まで信心に励まれて来た御夫婦であります。B君は、そのAさん夫婦が長い妊活を経て、願い求めてやっと宝として授かった一人っ子の長男であります。ですから、私とはB君が生まれて来る前からの縁が有ります。結婚式、安産御祈念、誕生して百日の初参りの御授戒、七五三、毎年の元旦の勤行、盂蘭盆会、春秋御彼岸、御会式等々、Aさん夫婦、Aさん双方の御両親と共々に参詣をしていた。しかし、小学校高学年になった頃から、徐々にクラブや塾で忙しくなり、Aさん夫婦と一緒に参詣する事は少なくなってしまった。Aさん夫婦は、「我が家の一粒種ですから、継ぐべき家業も、家柄も、田畑財産も有りませんから、この日蓮大聖人の信仰だけは継いでってくれよと言うんですが、どうも高校生、大学生となるうちに、色々理屈を言うようになって、子供の時には一緒に朝晩の勤行をしていたんですが、最近は、ああだこうだと理屈をつけて、やらなくなっているんですよね。怒鳴ったり、強制しても意味が無いし、こじれるだけだと思うので、顔色をうかがいながら、時々言うんですが、嫌な顔をして口をきかなくなるし、私の両親と家内の両親が生きていた時には、ちょこちょことおだてながら入れ替わり立ち替わり信心の話をしてくれたんですが、今は三人しかいないので、御互い険悪になると息が詰まってしまうんですよ。住職からも、きっかけがあったら話してやって下さい。」と言われていた。
 B君はもう社会人三年目に入り、だいぶサラリーマンにも慣れて、営業マンとして頑張っていると、Aさん夫婦からも、時々参詣した時に聞かされていた。そんなB君が、参詣日でも何でも無い時に、ひょこっと顔を出した。「こっちの方へ営業でたまたま来まして、時間調整で次の現場迄空き時間がありましたので、暫く御参りしていないなあって思って、住職がいなきゃあいないで御参りだけして帰ろうと思って来ました。でも住職がいて良かった。」と、話してくれた。「元気そうだなあ。立派になったなあ。スーツ姿が新社会人の頃と違って、自然で板について来たなあ。」と、言葉を交わし、御互い話しを始めた。近況話や断片的な思い出話が終わると、B君は、普段信仰には興味が無く、素直に親の言う通りにはならないぞという頑ななところが有り、私が「朝晩の勤行してるかあ。」と言うと、「へへへ、まあまあ。」と言いながら、話をはぐらかす様な態度が、中学生になったあたりから、ずっと続いていた。そのB君が、瞬間目の色が変わって、「実は、住職に話してみたい、聞いてみたい、モヤモヤした事があって。」と、話し出した。仕事の合間のついでにという照れ隠しの言い訳で訪ねて来たんだなと感じたので、時間が大丈夫なら、生まれて来る前からの長い付き合いだから、何でも聞くよと言うと、少し思い切った様な眼差しになり、話し出した。要約すると、こういう内容だった。
 自分は生まれる前から、自分の意思に関係なく日蓮大聖人の法に縁して生まれて来てしまった。信仰の選択肢も無いまま、両親、祖父母の言うがまま、すれば喜ぶので、嬉しくて、見様見真似でやって来たけれど、何かおかしいな、自分は信心しているのでは無くて、目隠し状態のマインドコントロールされて、信心させられているんじゃないかと思う様になった。親はやっているうちに分かるからと言うけれども、生まれて来る前から縁しているのに分からないんだから、親の言うことも好い加減だなあと思う。子供の時から、当たり前のように思っていたんだけど、幼稚園や小学校、中学校と進んでいくうちに、なんか世の中と違うなと違和感がどんどん大きくなってくるのを感じるようになった。両親や、たまに来る御寺でも、広宣流布、広宣流布という言葉を聞き、世界中の人が、この日蓮大聖人の法を信じるようになったら、世の中が平和な戦争や災害、病気の無い世界が出来上がるんだと言われて来たけれども、そんな事絶対無いと僕は思う。
広宣流布なんか出来る訳が無いと思う。
その理由として、僕は三つあると思う。
①に毎日朝夕の勤行を実行するという事
②に謗法厳戒という事
③に折伏するという事
①みんな学校の勉強や会社の仕事でヘトヘトになって食事や睡眠時間もままならない状態で、休みの日は少しでも体力回復の為に身体を休めていたいと思いながら生きている人が沢山います。そんな毎日の中で、朝と晩1時間1時間余りの勤行をして、時間が有れば御題目を唱えましょうなんて、出来る人は時間や仕事の時間と給料に余裕の有る恵まれた人でなければ出来ない。信仰する人に、それを求めれば、どれだけ正しい信仰でも、それだけで信仰しようという人はいなくなってしまうと思います。第一、御受戒を受けて、日蓮正宗の信者になった人でも、僕の様に、やったり、やらなかったりの人間や、全くやらない人間、クリスマスも御祭も平気でやっている人間、法事や葬式の時だけ、坊さんと御寺が無いと世間体が悪いからぐらいの、名前だけの信者もいっぱいいて、イスラム教徒の様な罰則があるわけでもない訳ですから。
②子供の時から、御祭は駄目、クリスマスは駄目と言われ、友達に誘われても、そういう所に行くことも出来なかった。話題にもついていけないし、友達からも変な奴だという眼で見られ、何か社会に溶け込めないなあって思いがあります。もし日蓮大聖人の法を世界中の人が信仰したら、法隆寺、東大寺、薬師寺、厳島神社、日光東照宮、中尊寺、大石寺、久遠寺、金閣寺、銀閣寺、清水寺、平安神宮、各宗の総本山、本山、サグラダファミリア寺院、ミラノ大聖堂、ウェストミンスター寺院、コルコバードのキリスト像等々の世界の宗教建築、世界中に有る宗教色の有る伝統的な御祭等々の世界遺産に登録されているような存在まで、全て破壊するんですか、破壊しても何千年も文化として生活として先祖代々やってきた心まで破壊できない為、破壊しても破壊しても復活し、憎しみ恨みだけが増幅して宗教戦争が起こる事になると思います。
③折伏すると言うけれど、日蓮大聖人の法が正しいと言っても、僕が小学生、中学生、高校生、大学生の時、同じ信仰をしている子は一人もいなかった、創価学会の子はいたけれども、池田先生、池田先生というばかりで、「君最近御題目があがってないんじゃないか、何か生命力が無いように見えるぞ。創価学会に入って御題目を唱えないと福運が付かないぞ。」と言われて、ありゃあとても同じ信心じゃあないなと思った。同じ南無妙法蓮華経の御題目を唱えていても、あんな歪んだ考えが混じっていたら、世間の人は、南無妙法蓮華経は皆一緒だと考えているだろうから、折伏する事が不可能と思えるほど難しいです。俺に言ってくる以前に、自分達の方をなんとか整理してから来いと言われてしまう。それに、信仰は両親、祖父母を見て来て、一生のものだと思う。折伏して信仰を伝えるという事は、その人の人生の価値観を変える事、寄り添い責任を持つ事になる、本当に重い事だと思う。自分がそれだけ深く信じているのか、正しく深く、法を理解しているのか、その人の先輩として手本になれるのかと考えた時、簡単に伝え折伏出来るものではないはずだと思う。それに、世間の人達は、どんな宗教でも、自分がやっている宗教が一番正しいと思って満足している。たとえ熱心に信じて無くても、先祖代々やって来た家の信心を自分の代で変えるわけにいかないし、御先祖さんが間違っていたなんて思いたくも否定したくも無い。と考えるんですよ。日蓮正宗だけが正しいんじゃなくて、あっちもこっちも正しい正しいの喧嘩、憎しみ合いになってしまっているんですよ。
 こういう事から、僕は広宣流布なんか出来る訳が無いと思うんです。永遠に実現不可能なゴールの無い蜃気楼の様な綺麗事の目標を掲げて、信仰者を煽り駆り立てて、積んでも積んでも必ず崩れる賽の河原の石積みの様な事をさせるのは、聖書に書いてある神の国ユートピアと同じで、有り得ない理想を現実に有るかの様に絵画彫刻に具現化し、別世界を現実と思わせてミスリードしていると思うんです。
 仕事の合間のついでではなく、B君は親に言われてやる信仰から、自分でやる信仰に脱皮する為に、長年心に澱の様に溜まって割り切れないモヤモヤした、矛盾を何とかしたいと、心の中で葛藤しているんだなと感じた。子供の時から、両親、祖父母につれられて、参詣しているので、日蓮大聖人の法を聴いている様で聴いていない、聴いていない様で聴いているので、共通の認識理解にズレが有る為、難しいなあと思いつつ、これは大事な瞬間だなと思ったので、時間大丈夫か?と尋ねてから、「三つ有るから、いっぺんに分かるように話せないかもしれないけど、今から手短に話す事を、スタートの手掛かりにして、又こうして遠慮無く電話でも、メールでも、こうして立ち寄ってでも良いから、引き続き何度でも尋ねくれよな。」と、前置きして話し始めた。
①ほんと勤行大変だよな。俺も、未だに、朝夕の勤行が嫌だなあと思う時があるもんな。でも、不思議に、やり終わった時には、やっぱりやらなきゃ良かったって思わないで、やって良かったと思うんだ。でも次の勤行迄、やって良かったという心が続かないで、次の勤行が迫ってくると、嫌だなって思っちゃうという繰り返しなんだ、勤行が楽しくて嬉しくて、したくてしたくてウズウズするという事は無いんだ。勉強と同じだね、勉強は今まで知らなかった事が一つ一つ解っていくので、好きで好きで没頭する人がたまにはいるけど、勤行は毎回同じ文句を読むだけだから特別ワクワクする事もないしね、つまんないんだよ。B君もそうだろ。でもこれ修行って練習なんだよな、スポーツの選手、書道、踊り、華道、茶道、囲碁、将棋、料理等々、オリンピック出場を狙う選手、職業とするプロの選手でも趣味でやっている素人でも、その道を楽しみたい、少しでもうまくなりたいと思えば、毎日毎日、何十年も、友達と遊んだりする時間や、見たいテレビも我慢して、食事や睡眠まで注意しているんだ。信心の修行だけがきついんじゃなくて、どんな分野でも一途に探求しようと思えば、苦しくても退屈で、面白くない同じ事の繰り返しの練習鍛錬をしなきゃいけないよね、始めた時は、皆、先生や先輩に言われるからやっている、先生や先輩がいなければさぼる、そのうち、先生や先輩に言われなくてもやらないとうまくなれない、記録が伸びないという事が分かり、自分の為に練習をする。でも、練習は辛い、練習をどれだけしても、必ず記録が伸び、必ずレギュラーになり名選手となれる訳ではないからね。でも練習しなければ何も心身に付かないんだ。頭で考えてでなく、自然に生命、心、が反射反応する様に、身体に憶えさせる。そして、そのスポーツを将来止めたとしても、挫折や喪失感だけでなく、あの時あの事にあれだけ頑張れたんだからと、違う事にも活かして行く事が出来るんだ。B君はまだ、言われてやらされていると思ってやっているんじゃないかな、本当は自分の為にやるんだ。確かに大変で厳しいから、世界中の人が朝夕の勤行をするなんて時が来る訳ないよな。勤行、題目が自分自身の修行、信念として大切だと一人一人が思わない限り出来ないよね。これはB君の言う通りだ。
 譬えて言うと勤行は薬の説明書、南無妙法蓮華経は薬の本体だ。よくよく考えたらおかしいよね、仏が説法した法華経を、御本尊に向かって読むって、【釈迦に説法】の姿になってしまってるよね。でもね、こういう事なんだ、自分の声帯を使って唱えた法華経、南無妙法蓮華経の御題目は、耳に入り、心に伝わる時には、仏の声、仏の説法なんだ、自分の声だけど、仏の声なんだ、つまり勤行は仏の説法を朝晩聴いて、南無妙法蓮華経が大事だよ法華経の説明が大事だよと、分かっても分からなくても、常に言い聞かせていることなんだ。スポーツの選手が毎日毎日ルーティンとしてトレーニングをする。腹筋運動を100回するところを、しんどいから80回でもいいやとしとく、自分の怠惰な心に勝てない者が、対戦相手に勝てるわけがない、いざという時、相手に負ける以前に、自分が自分にあきらめくじける。つまり、勤行は、自分に何度も何度も仏の言葉を言い聞かせる為にやるんだ。功徳を貰う為とか、病気を治す為、悩みを無くす為、幸せになる為、人間革命する為にやるんじゃないんだ。親は君を心配して、速く速くその事に気付いて貰いたいと思って、やれやれとせっつくかもしれないが、トレーニングと同じで、言われてやるんじゃなくて、自分が自分の為にやってこそ本当の勤行なんだ。
 朝晩、勤行をしている人達は、時間を持て余している暇人だから、やっているんじゃないんだよ。皆、良い労働条件の会社に勤めて、必ず定時に帰宅できる人ばっかりじゃないんだ。それはお父さんお母さんを見てれば分かるだろ。朝1時間、夜1時間の勤行をするためには、3分5分の小さな時間を掻き集めて、1時間に固める努力をしているんだ、見たいテレビ放送があれば、今の内に、これをしておこう、あれをしておこうと、工夫してやっているんだ。その努力工夫は、信仰者として、まず勤行が基本だと信じ考えるからだ、その気持ちが無い人は、朝晩の勤行は出来ないよ。強制されてするんじゃ信心では無いんだ。だから世界中の人が一緒に勤行する時が来るわけ無いよね。信心させられていると思う人は勤行しないもんね。
 B君が言うように、御授戒を受けていても、勤行をしない人がいっぱいいる。まったく信心気が無い人、自分の趣味、遊びが生活の中心の人、社会の事、他人の事、社会の事、何にも興味無く、自分の事だけ、1日1日おもしろおかしく生きるだけで精一杯の人、子供の時に御授戒を受けていても、心に信仰心を持ってなくてクリスマスも御祭も参加協力し謗法を犯している人もいるんだから、世界中の人が入信したとしても、世界中の人が勤行する事は無いよね。
 仏教では全ての生命の心は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏という十の界に概別された生命の合体で活動していると思考されているんだ。信心修行すれば、地獄、餓鬼、畜生、修羅等々の生命が消滅して、仏の生命だけになるという事は有り得ないんだ、つまり信仰していても、地獄、餓鬼、畜生、修羅等々の生命を抱えたまま生きていかなければいけないという事なんだ。一般世間では、仏や菩薩は真実の法を悟り、迷心、悪心が完全に無くなった完全無欠の存在だと思い込まれているんだけれど、そんな仏は存在しないんだ、凡夫が凡夫のまま成仏するという事が法華経に前代未聞初めて説かれたんだ。つまり、全ての生命、心のありのままの真実のあり方を法華経は初めて説き明かされたという事なんだ。だから、信心しているくせに、性格、生き方、言動がおかしいじゃないか、完全な人格者じゃ無いじゃないかと自分の事は棚に上げて批判する人がいるけれども、どんなに努力しても努力しても、十の界の生命を抱えて生きている以上、完璧な人格者、完全無欠になれる訳がないんだ、聖人君子になる事が目標じゃないし、一切衆生全員が聖人君子になれる訳がないんだ、元々が凡夫なんだから、常に努力し続けるしかないんだ。世の中で、生き仏や生き神を名乗っているオーム真理教の麻原彰晃や創価学会の池田大作、幸福の科学の大川隆法、大石寺の現代の日蓮大聖人と称している歴代の貫首等々の各宗教の頂点に君臨する人達がいるけれど、あれは自身思い込み自洗脳、信者を他洗脳し、愚かに自他共に、十界互具の凡夫では無いと、思い込んでいるだけの裸の王様なんだ。千日回峰行を満願したら生き仏だと考えている人達も、同じ類いなんだ。生まれてから死ぬまで、迷いを持たない生命は無い、全ての生命は凡夫なんだ。法華経以前の教えは、聖書に書かれる原罪と懺悔の教えと共通しているけど、凡夫が信心、修行して、迷心、悪心を全て滅尽し仏に成るという現実不可能な教えだけど、法華経は、凡夫は凡夫のまま仏に成るという、現実の人間の性を肯定した教えなんだ。その法華経を通して、十界互具の凡夫の生命の中に、仏性として仏界を抱いているという事を、日蓮大聖人だけが、一切の凡夫衆生の為に説き明かしてくれたんだ。
 B君の家は3人家族で、全員日蓮大聖人の法を信仰している。つまりB君の家は広宣流布されている訳だ、なのに、悩みや、病気、ケガ、経済不安、老後の心配、B君の将来の不安等々、心配だらけだ、この心配の原因は、B君の家以外の人が間違った信仰をしているからだと言う間違った考え方の日蓮正宗の信者がいるけれども、それは災いは何でも他人のせいにする屁理屈なんだ。これと同じように、世界中の人が信仰したとしても、原因結果の道理の中で起こる、全ての生命(心)の営みにおける、争い、災害、病気、事故等々は無くならないんだ、死んで霊山浄土、極楽浄土へ行ったら、何の苦しみも災いも死も悩みも無い世界が待っているとか、聖書に書いてあるようなユートピアみたいな別世界なんか無いんだ。
 世界中の人が信仰するという順縁広宣流布は絶対に無い。権力者の強制によって世界中の人が信仰しているかの形態に一時的になったとしても、権力者を恐れてのものであり、権力者が交代し変われば、又混沌とした時代を迎えるだけなんだ。力ずくや洗脳で広宣流布しても、それは、一切衆生平等成仏の広宣流布では無いんだ。民主主義の多数決のお理論で広宣流布を決めるというのも、全世界全員では無いから広宣流布とは言えないよね。しかし、逆縁の広宣流布として、世界中の人に、反対されても、馬鹿にされても、弾圧されても、日蓮大聖人の法を伝え折伏し、日蓮大聖人の法に世界中の一人一人に伝え縁せしめる事は必ず大地を的とする様に出来る、日蓮大聖人の法を信仰する者達が使命責任として、しなければいけない。確かに、どの宗教宗派も自分の所が一番正しく最高の教えだと主張し思い込んでいる。自分の所が正しいと主張するのは自由勝手だ、でも本当に、その教えに理論的に一切衆生は神仏と平等に尊いという法が説かれているか、説かれてないなら、正しい法とは言えないんだ。例えば南無阿弥陀仏の念仏には悪人の成仏、女性の成仏は説かれていない。にもかかわらず、説いてあるかの様に、「悪人正機」等と言っているが、阿弥陀経に、そんな教えは影も形も無い。聖書には、生命の階級差別を肯定し、異教徒民族に対する暴力殺人報復の肯定。そこには不自由と不平等しかない。聖書を基軸にして営まれてきた先進国の歴史や価値判断の未来には絶対に自由と平等も平和も望めないんだ。つまり一切衆生平等成仏が説かれている法、どんな生命にも、平等に仏性が具わり、どんな生命も仏に成る資格が有ると説かれている法は日蓮大聖人の法しかないんだ。全ての生命を尊敬し合う、この法華経こそが本当の自由と平等と平和を実現する事が出来る法なんだ。自分達が正しいと言うのは自由で勝手だけど、教えが正しい法と言うならば、全ての生命が救われる一切衆生平等成仏の法が説かれていなければ、いけないはずなんだ。成仏出来ないのに成仏出来ると嘘を言い、一切衆生を騙し迷わせている事になるんだ。正しい法と主張するならば、当然騙したり、脅したり、強制したり、弾圧したり、暴力、殺戮、破壊、戦争等々を正当化し犯し、異教徒を差別否定する法ならば、一切衆生平等成仏の法などでは絶対に無いんだ。だから、広宣流布とは、世の中を日蓮大聖人の法で覇権制圧するのでなく、法がどれ程正しくても一人一人が心から南無妙法蓮華経を信ずる心を湧き起こさなければ、一切衆生平等成仏の法にはならないんだ。正しい法ならば、強制しても良いんだ、最後は戦争で異教徒を殺戮しても良いんだと考えて戦争が続いているけれども、日蓮大聖人の法から外れる歪んだ慢心でしかないんだ。
 B君、広宣流布とは、そういう事なんだ。今まで抱いて来た間違っ固定観念を上書きアップデートして認識を変えて貰いたいな。
②だから、世界中の宗教的世界遺産を破壊しても意味が無いんだ。人類の歴史の中で、そういう歩みをしてきた事を、焚書の様に焼き尽くし目に入らないように否定し無くせば無くす程、復興するし、憎しみ恨みが増し捩れ、教えの内容では無く、感情論になり、不毛の争いが起こるだけなんだ、建造物を破壊しても、心の中の信仰心を破壊して改めることは出来ない。個人が持っている神札や仏像を、謗法払いと言って破ったり、焼いたり、砕いたりしても、又神社や仏具屋で買ってくれば元の木阿弥だ。仏に成る事が出来ない教えでも溺れる者は藁をも掴むで受け入れてしまう。そういう心を改めなければ、永遠に、いたちごっこなんだ、払うべきは、物ではなく、成仏する事が説かれていない教えを、成仏出来ると思い込んで信じてしまう心を、自分自身の心から払わなければいけないんだ。藁の教えを掴んでも、また溺れる事を繰り返すだけなんだ。歴史の中で遺されて来た物は、人類の歴史を振り返り考える証拠の遺物として、大切に保管していかなければいけないと思うよ。過去の歴史も未来の未知の歴史とも、皆んな十界互具の生命の営みの歴史だから、否定したり、拒絶したりでなく、共生していかなければいけないんだ。
③は、①と一緒に答えたから、理解して頂戴。
 B君が産れた時、お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、皆涙で顔を洗ったんじゃないかと思うくらい喜んだんだ。お母さんは、「あんなに待ち望んなのに、こんなに痛くて苦しいなんて。」と言って、泣き笑いしてたよ。俺も出産後すぐ駆け付けてガラス越しに見に行った時、涙が止まらなかった。いまB君は成人し、社会人になって自分の自我の確立、自立を一所懸命考えていると思うけど、B君、生命はB君だけの物じゃ無いんだ。沢山の人が望んで、沢山の人に支えられて、今まで生きてこれたんだ、うっとうしいなあと思うかもしれないけど、B君の生命はB君だけのものじゃないんだ。分かるよな。地球規模で言えば、40億年前からの全ての遺伝子の繋がりを源として、全ての生命が存在し生きているんだ。全ての生命の一つ一つの遺伝子、一つ一つの細胞は、全て同じで平等なんだ。
 もう一つ言うと、地球は太陽の周りを365日で一周するので秒速30㎞で公転している。そして、24時間で一周するので時速1500㎞で自転しているので、昼と夜、満潮干潮が有る。地球は約23,4度傾き、近くに月が有り、太陽と月と地球の引力によって、その位置と公転、自転の速度が定まっているんだ。もし地球の近くに月が無く、23,4度傾いていなかったら、地球は8時間で自転するそうだ、という事は、昼4時間、夜4時間という事になり、学校も会社も社会生活も成り立たない事になる。地球が出来て46億年、B君、これ、奇跡偶然だろうか、誰も何故だと回答出来ないけれど、40億年かけて、現在世界人口80億の人間が生活を営んでいる事を考えると、これは必然なんだ。そして、これらの条件要素全てに支えられて、自分達の生命が存在させて貰っているんだ。一人では生きられないし、人間だけでは生きられないんだ、全ての生命、存在に、支え支えられ合って生きているんだ。
 一つ例に挙げると、物理学者、天文学者、数学者であるニュートン(1642~1727)が1665年【万有引力の法則】を提唱し、まだ宇宙がどういう物かも分かっていなかった時代に、宇宙の全ての惑星は引力によって、その位置に存在している事を証明したんだ。万有とは全ての存在がこの法則を有し基軸としているという意味なんだ。全てに平等の法ということだよね、水や空気や火は地球で生きていく上には平等で大切な存在だけれど、他の惑星では必要不可欠なものではないかもしれないから、一番平等と感じられるものとして【万有引力の法則】を挙げるんだけど、ひょっとしたら、ブラックホールを通過した先の世界は違うかもしれないから、一例として考えて頂戴。リンゴが木から落ちるのを見て発想したという有名なエピソードがあるけれど、すごいよね、歴史上、それまで誰もが、腐って落ちる前に見つけて食べれば良かったのに位にしか考えなかったのに、ニュートンだけが、引力と、まだ全宇宙がどういうものなのか誰も考えもしないし、把握出来ていない時代であったにもかかわらず、全宇宙の惑星の存在は、この引力によって位置が定まっている事を証明したんだ。強引な譬えだけど、仏もニュートンと同じなんだ、ニュートンは引力の法則を発見したけれども、ニュートンが引力を創造したのではない、妙法蓮華経の法も、仏が一切衆生に魁けて目覚めて悟ったけれど、仏が創造したものでは無いんだ、でも、ニュートンが世に発表しなければ、ギリシャ神話や、聖書に書いてあるままの混沌とした矛盾した物語の様な解釈で、空を仰いでいただけなんだ。ニュートンのおかげで、今までの考え方を破壊して科学は発想の転換をし飛躍的に進んで、近代科学に繋がって行くんだ。聖書には、神が天地創造したと書き示しながら、天地がどうなっているかも分かっていないで、虚妄な宗教権威だけを押しつけているんだ。
 全ての生命、存在に平等の法則、妙法蓮華経の法も、全ての生命に平等に仏の生命が具わっていて、どんな生命でも仏に成る事が出来るという、全ての生命の要素であり基軸となる法なんだ、仏が衆生を救い導く仏の力の実体とは法なんだ、御医者さんが患者の生命を救えるのも、薬、手術、という道理(法)に叶うからこそなんだ。人々は仏の力、御医者さんの力と感じているけど、道理(法)に順じなければ、救う事は出来ないんだ。だから仏以前に本然として法が存在しているんだ。元々法が有るからこそ、その法を悟った人が仏と呼ばれ、法をもって一切衆生を導く導師になったんだ。
 日本にもニュートンの様な凄い人がいるんだ、日本の地図を初めて、日本の沿岸を踏破し、測量し、作った。伊能忠敬(1745~1818)は、江戸時代の商人でありながら、天文学者、地理学者、測量技術者で、寬正12年(1800)55歳~文化13年(1816)71歳、17年かけて日本全国を実地測量し、寬正9年(1797)には、天文学者として、新しく【寬正暦】を作る。その上で地球の大きさ、世界の中の日本の位置、日本の正確な形を知りたいと考え、江戸から蝦夷位の距離の隔たりが無いと、正確な経度、緯度が分からない事に気付き、どうしても日本の地図が必要であるとの考えに至り、沿岸測量踏破を決断するんだ。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等々の天下人でさえ、天下の正確な形を知らなかったのに、初めてその日本地図を作ったんだ。地図は本物の地面を尺取り虫の様に測量しながら、歩かなければ出来ないんだ、現代では、歩かなくても、飛行機とか宇宙衛星からの撮影で出来るけど、伊能忠敬の時代は、当然そんなものは無いからね。日本の原寸大の本物の大きさの紙に表現する訳にはいかないので、縮小する。地図は当然本物では無い、しかし地図を見ることによって本物を正しく思い描く事が出来る。地図は正確でなければいけない。間違っていれば迷う。縮尺地図を頼りにして、実際に確認し利用し、歩かなければいけない。伊能忠敬が唯一魁として最初に本物の日本を歩いて仮の地図を作ってくれたから、他の後の時代の人は、歩かなくても、この地図を手がかりに、国の形を正しく把握する事が出来るんだ。ニュートンの万有引力の法則も数式で表示され説明がされる。数式は万有引力そのものでは無い、でも伝わる。御本尊様も地図や数式と同じ立ち位置の存在なんだ、日蓮大聖人は未曾有の本尊と表現されているけれど、文字の本尊を書き顕した事も勿論前代未聞の未曾有だけれども、本当の未曾有は、全ての生命に仏の生命が具わり、全ての生命が南無妙法蓮華経の法華経の行者として生きる事によって必ず仏に成る事が出来ると言う事を、本尊に顕わした事こそが、真の前代未聞の未曾有なんだ。ニュートンが引力を作ったんじゃない。伊能忠敬が日本の地形を作ったんじゃない。でも、身を以て、困難、批判、中傷等々を乗り越え、魁として、探求実行したからこそ、全ての存在生命に対して公理として提示する事が出来たんだ。
 B君、子供の時から、耳にたこが出来るほど聴いてきたと思うけど【成仏】って何か分かる?修学旅行で行った、京都や奈良のお寺に安置されている金ピカの仏様が有るけど、死んだら、ああなると思う?仏は悪心も迷心も無く、清浄な心だけで完全無欠だから、金属の最上の価値を持つ金で全体を包んで、完全無欠と尊敬の念を表わす為に、金ピカにしているんだけど、あんな人が実際にいたら、異様で怖くて気持ち悪くて、話を聞く気になれないよね。自分達とは別格で特別の選ばれしエリートな存在としか思えないよね。仏様には出来たかもしれないけど、私には無理だと、初めからあきらめる絶望感しか持てないと思う。
 悪心、迷心を無くしたら仏に成れる。一所懸命無くすように信心修行の努力をして、一生の内に出来なければ、100回1000回と生まれ変わり死に変わり、残った宿題をかたづけるように、前世の修行の続きからやって行く。悪心、迷心、と言われる、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚等々の生命を断じ尽くせば、仏界の仏の生命だけになり、それが成仏なんだ、仏様なんだと言うんだ。B君どう思う。B君もなんか成仏って、そういうイメージで考えていない?死んだら、なんか、選ばれし仏様だけの快適な国土があって、そこで、御酒、御馳走、朝風呂、快眠、快便、無病息災、何の苦労もストレスも無く生活出来る。じゃあ、そこで仏は何百年何千年生きるのかね、永遠に遊び人として暮らせるのかね、仏なのに、導かなければいけない迷いの凡夫は、そこにはいないで仏様ばかりの団体だから、仏の務めも果たさなくて、毎日極楽三昧の遊び人。それが仏って言えるかね。仏の勤めをしてないから仏じゃ無いよね。つまり、日蓮大聖人は、こういう成仏を否定しているんだ。何千年何万年修行し、地獄、餓鬼、畜生、修羅等々の生命を一つずつ不可逆的に退治して仏界だけが残る。十界互具が、九界互具、八界互具、七界互具、六界互具・・・・となって行くと言う理屈になるんだ。それに対して、日蓮大聖人だけが、御釈迦さんが亡くなって2000年過ぎた末法という時代は、十界互具の凡夫しかいない時代で、悪心、迷心を不可逆的に無くすことなど出来ない。退治したと思っても、又よみがえって来る。悪心、迷心の十界の瞬間瞬間不規則にコロコロと変わる生命を抱えたまま仏に成る事が出来なければ、誰も救われないという事だ、救われないという事は、法華経以前の教えは理論的に成仏出来る教えでは無いという事なんだ。だから、法華経に前代未聞、仏も元々凡夫なんだと、私達の生命に則して初めて説き明かされたんだ。悪心、迷心を持った私達凡夫こそが成仏出来る教えでなければ、本当に救われ、安心安穏な心栄えになれなければ、正しい法では無いと説いたんだ。B君も御題目を唱えた後、瞬間でも、ささやかでも何か清々しい気持ちになったりするだろ。それが、自分の生命に具わる仏の生命に、説明は出来ないけど、触れ感じたという事なんだ、僕ら凡夫は、十界互具だから迷ったり、悟ったり、迷ったり、悟ったりをコロコロ繰り返し繰り返し生きているんだ。悟ったら悟ったまんま、迷ったら、迷ったまんま固定しているという人はいないんだ。だから死んで仏に成る、死んで仏の国に行く、死んで金ぴかの仏になるんじゃなくて、生きている時の生命も、亡くなってからの生命も、B君が南無妙法蓮華経の法を信じて、南無妙法蓮華経の法に縁し、B君の生命心に、微かでも仏の生命が具わっている事を感じる瞬間瞬間が仏なんだ。凡夫が仏の姿形に変わるとか、住む場所が娑婆から仏国に移転するとかでは無く、B君自身の心が仏の生命心を感じ、仏の生命心に満たされなければ、仏とは言えないんだ。日蓮大聖人は生涯、着る物や食べる物にも困窮した生活だった。その上罪人としての流罪生活の為、その困窮は、常に死を覚悟しなければいけない、壮絶なものだった。だから世間の人達も日蓮大聖人を乞食坊主の様に見ていたんだ、どんなに正しい法を説いていると言っても、何故あんなみすぼらしいんだ、怪しい、胡散臭い、狂人じゃないのかとまで感じる人がいたんだ。でも日蓮大聖人は、「日蓮は日本第一の貧しい者だけれど、日本第一の富める者なり。」と言い切っているんだ。それは負け惜しみでも、虚勢でもなく、どんな境遇であっても、法華経の行者として誰よりも一番心豊かに生きているという事なんだ。つまり、姿形や、快楽な住む場所で無く、心が仏で無ければ仏では無いという事なんだ。一般社会の人達が、仏として抱いているイメージとしての考え方は誘引方便の教えから導き出された物であり、それを固定観念にする事は、本当の私達一切衆生の凡夫の生命に即していない間違いなんだ。
 だからB君も、信心を、ああだこうだと①②③形式で考えて来たと思うんだけど、先ず信心は、眼に見えないけど、形よりも確かに心の中に存在する信ずる心、信ずる志、信ずる真心なんだと考えて貰いたいんだ。病気を持って生まれて来たとしても、不治の病にかかったとしても、短命で亡くならなければいけない状態になったとしても、大きな事故、災害(抗争、戦争、地震、津波、核汚染、大火、台風)によって、自身の生命を亡くす、親族、友人、財産、家屋、土地、故郷を失うようになっても、理不尽な差別、いじめにあっても、絶望の中からでも南無妙法蓮華経の法に出会えた事を喜び、唯一無二の生命の尊厳を説かれた南無妙法蓮華経の法を信じ立ち上がり、全てを南無妙法蓮華経の法によって変毒為薬する志で、生まれて来て良かった、生きて来て良かったと思う心の姿こそが成仏なんだ。
 先ず、今までは親に育てられて一人前になって来たんだから、これからは、育ててくれた親、支えて来てくれた人々に、恩返しし支えていく生き方に変えていかなければと思うよ。例えば親から今までお年玉を貰って生きて来たんだから、社会人になったB君が、もう親に報恩として、今までお世話になりましたという心で御正月お年玉をあげるくらいの発想の転換が毎日の生活の中で必要だと思うよ。
 いずれにしてもB君、今日こうやって自分の思っている事を素直に話してくれてありがとう。もう親から言われてでは無く、親離れして、B君自身が信仰を自分で考えて、疑問を晴らして、自立した信仰をしなければいけない時を迎えているんだと思うよ。俺も真剣に応えるから、これからも何でも問いただして頂戴。疑い、疑問を晴らし、理解して行く事によって、初めて日蓮大聖人の法に、共感、歓喜が湧いて、人にも伝えたいという心が生まれて来るんだ。信心は疑ってはいけないと言う人がいるけど、俺は、そう思わない。疑い、疑問は信心の原動力だからね。疑い、疑問の無い信心は、信心じゃ無いんだ。疑問を晴らして納得し共感し歓びを持って、やっていくのが本当の信心だからね。でも疑い、疑問をそのままにして長く抱えておけば、猜疑心、浅薄な思い込みの固定観念に固まって人間としての心も信心の心も曲がって行ってしまうから良く注意して、早め早めに晴らす様にしてね。
 今日は貴重な時間をありがとう。とっても嬉しいよ。又話をしような。
2024/5/5