大石寺は、
【戒壇本尊】が宗旨の根本である。
【戒壇本尊】に日蓮大聖人の仏法の全てが納まっている。
【戒壇本尊】が消滅する事があれば、その時点で日蓮大聖人の法も無くなる。
だから【戒壇本尊】は、消滅する事は無い。
大石寺の代々の貫主が、宗祖日蓮大聖人から68世まで、【一器の水を一器に一滴も漏らさず、濁らず、減らさず、増やさず、清浄に今日まで伝えられて来た】だから、代々の貫主は、その時代の日蓮大聖人様、生き仏である。日蓮大聖人が68人いるという大変陳腐な屁理屈になっています。しかし、歴史上残されている確かな歴史文書によって、大石寺の歴代貫主の中には、釈尊像を本尊として安置した人間もいるし、前貫主を力ずくで、引きずり降ろした人間もいるし、近くは阿部師のように、嘘をついて相承を強引に奪い取った人間もいるのであります。まさしく十界互具の人間模様そのものの展開の中で800年の歴史があるのであります。にもかかわらず、大石寺僧俗は、【貫主絶対】を頑迷に言い続けて、信者も信じ続けて、客観的に自らを顧みないのであります。
大石寺僧俗は、つまり、この二つの【戒壇本尊絶対】と【貫主絶対】を広宣流布し、世界中の人が、これを信じれば、世界が争いも、病気も事故も災害も無い、平和な世の中になると主張しているのであります。
それでは、【戒壇本尊絶対】で、【戒壇本尊】こそ、日蓮大聖人の法の全てが納まっていると言うならば、【戒壇本尊】の外には法は無いということになります。【戒壇本尊】が現れる以前には、日蓮大聖人の悟られた、【一念三千の法】は一体どこにあったのでしょうか?苦し紛れの逃げ口上の屁理屈で、日蓮大聖人の御内証にあったと言うならば、日蓮大聖人の産まれてくる前、日蓮大聖人が【一念三千の法】を悟るまでは、【一念三千の法】は、無かったのでしょうか?本然として、永遠常住に、永遠の過去から、永遠の未来に法があるからこそ、日蓮大聖人が悟ることが出来たのであります。日蓮大聖人が、【一念三千の法】を作ったのではないのであります。【戒壇本尊】が材木の腐敗や、火災、地震、災害等々で、灰燼に帰す事があっても、【一念三千の法】は無くならないのであります。しかし、大石寺は、法は永遠常住であると言いながら、【戒壇本尊】が無くなったら、法が無くなると狂気の沙汰を平気で言っているのであります。
【一念三千の法】は、人類がこの世の中に現れる前から、全ての生命に仏の生命が具わっていて、全ての生命は仏となる資格が有るという、全ての生命の絶対の平等を説いている法であります。つまり特定の【戒壇本尊】に限定、凝縮、固形、封印されたもので無く、全ての生命に遍満し、目に見えないけれども確かに具わっているものなのであります。【戒壇本尊】が灰燼に帰せば無くなってしまうなどという陳腐な屁理屈で説明出来るはずがないし、【一念三千の法】は永遠常住の法であると説きながら、有限の楠の木材に彫刻され作られた【戒壇本尊】を【究竟の本尊】【本尊の中の本尊】【本尊の体であり、他の本尊は散影】であるとし、本尊に上下差別順位有りと説いているのであります。森羅万象、全ての生命は平等であるという法を、南無妙法蓮華経の題目に表示し、本尊に写したにもかかわらず、その本尊に上下差別順位の差異ありと主張し、戒壇(信心修行の場)も、大石寺の戒壇本尊安置の場所だけが、唯一の戒壇のように主張している。つまり、題目は一切衆生に平等、本尊と戒壇は差別という屁理屈であります。題目(法)が平等なら、本尊も戒壇も平等である事が当然であり、そうでなければ、法として成り立たないのであります。
こんな【戒壇本尊絶対】と【貫主絶対】を信じる(盲目服従)する人々が世界中に拡大することが【広宣流布】と考えているのであります。そんな事が、【一切衆生平等成仏】の法が一切衆生の心を満たして、安心立命の成仏の心に満たされたものとなるでしょうか?自他の生命に仏の生命を味わう事が出来るでしょうか。出来るはずがないのであります。
私達は、どんな生命にも仏性が具わり、どんな生命も成仏する資格がある。その為には、南無妙法蓮華経の法華経の行者として、南無妙法蓮華経の法を信じ、行じ、学び、縁する人々に折伏し伝え、自分の生命に具わる仏性、他の生命に具わる仏性を感得していかなければいけないのであります。この事を【広宣流布】して行く事が、本当の【広宣流布】なのであります。
間違った【戒壇本尊絶対】【貫主絶対】を教義と偽り強弁し、洗脳、マインドコントロールし、【物】として、信じ、すがれば、信心の目的である【広宣流布】も、狂った【物】になって行きます。
私達は、こんな狂った考え方に、懐かしさを感じたり、入信当時に教え込まれた、【戒壇本尊絶対】【貫主絶対】【広宣流布】に戻らない信心をして頂きたいと念じます。