勤行唱題中に湧き起こる煩悩雑念の防止方法

 御経御題目を唱えていると、いつの間にか湧き起って来る煩悩雑念に迷い、さまよい、溺れている事が再三ある。御経の時は、次から次に違う言葉になるために、暗記していても、御経本を見ていても、間違ってはいけないとの思いがあるので、煩悩雑念は湧く事が少ないですが、御題目になると、南無妙法蓮華経の繰り返しになるので、心に煩悩雑念が隙間風の様に、次から次に入り込み心が翻弄されてしまうのであります。
 私自身もそうですが、沢山の御信者さんからも50年余り、「勤行、唱題中に、雑念が湧いて来たら、どうしたらいいですか。」と、質問され続けて来たので、これは信仰者にとっての永遠のテーマではないかと思います。
 創価学会員に至っては、「願いとして叶わざるは無しの御題目だから。」と言って、「人間革命出来ますように、聖教新聞の購読者を増やせますように、公明党が選挙で勝ちますように。」と、願って願って願い抜いて御題目を唱える事こそが、正しい唱題だと、完全に御題目は現世利益のエネルギー源であると思い込んでいるのであります。【題目貯金】等と言って、普段から御題目を唱えて貯金しておいて、困った時に下ろして使えるようにしておくんだ。御題目を100万遍唱えると境涯が開けて宿業を断ち切ることが出来ると、改札口で駅員が使っている、通過人数を数える時に、手の平に納まる大きさのカウンターを買い求め、カチカチと押しながら唱題するという、題目で無く、回数を念じているのであります。これ等の創価学会が勝手に編み出した指導を、あたかも日蓮大聖人の法であるかのようにして、何しろ南無妙法蓮華経の回数を多く唱える事が目的であり、沢山唱える事で達成感満足感を得る為、なんみょーほーれんげーきょーと聞こえない、なべおほれとしか他人には聞こえない発音でも速く回数を稼ぐには、唱えている本人は、なんみょーほーれんげーきょーと唱えているつもりでいるのであります。完全に自己満足の状態ですので、法事や御葬式で導師の僧侶が御経、御題目を唱えても、自己流の読み方、速度に凝り固まっているため、まったく唱和する事が出来ないのであります。
 創価学会を脱会して正信会に信心の道を求めた人でも、勤行の時、御題目を唱えながら「妙風」を読むと、スーッと心に入ってくるんですよね。と言う人がいましたから、それは止めた方が良いよ、勤行は勤行、新聞は新聞、一緒にするもんじゃないよ。というと、信心の新聞なんですから、良いじゃないですか。と言い張り、それが立派な雑念だとは思っていないのであります。世間一般では、良く【無心】【無我夢中】【心頭滅却】等々と言いますが、十界互具の生命が基であれば、【無心】【無我】【心頭滅却】等という事は有り得ないのであります。心に南無妙法蓮華経を念じて南無妙法蓮華経と唱える事が重要なのであります。南無妙法蓮華経と御題目を唱えながら、その御題目を何回唱えたかの回数や時間の方に心が向いていたり、回数や時間の為に御題目を唱えるという思考も御題目では無く雑念なのであります。自分の願い事を念じながら唱える事も雑念なのであります。又は、勤行、唱題中に良いアイデアが浮かんだ、これは御仏智だから間違いないと言う人、御題目を唱えながら、子供に「御風呂掃除しときなよ。」「今のうちに宿題やっときなさいよ。」「炊飯器のスイッチ入れといて。」等と言うのも、仏様に気付かせて頂いたと思っている人もいますが、仏智などでなく完全な雑念であります。唱題中に、忘れていた大事な事を思い出させて貰ったとか、思いついた、大事な事が閃いた。という事も全部雑念なのであります。
 大学生時代に在勤した法道院の住職、早瀬道応さんは、勤行中、使用済み塔婆申し込み用紙の裏が白いので、それをメモ用紙にして指示を次々と書き、一緒に勤行している在勤者に渡すのであります。それが毎日朝夕毎回なのであります。勤行後でも良い内容でも、即座に返事を求める内容指示なのであります。ひどい時には、勤行の最中に御宝前の樒の活け方が悪いから降ろして直してこいという指示で、降ろして水場で入れ直して御宝前に供えると、左右のバランスが悪い、やり直しというメモが渡されます。何回かやっているうちに、勤行が終わっていたという事がありました。勤行が終わった後は、樒がどうなったのか何の関心も示さないのであります。勤行が始まると、湧き起こる雑念のかたまりを御仏智における良いアイデアだと思い込んでいたのだと思います。今でも大学生時代の四年間、毎日の様に、何故一言でも異を唱える事もせず、あんな事をしていたのかと自己嫌悪に陥ることがあります。御題目を唱えている時に、今まで分からなかった法門が閃いたんだから、俺の解釈には間違いが無いと言う僧侶もいました。文証、理証、現証の仏法を否定超越して閃きの雑念を肯定しているのであります。勤行が終わったら雲散霧消してしまう様な思いつきの心模様は全て雑念なのであります。勤行、唱題中に浮かんで来た考えをメモに取ろうが、そんなものは自分の感情を中心とする【依人不依法】であって、絶対に【依法不依人】では無い煩悩雑念なのであります。眼をつぶる事が常態化し読経唱題しているという人がいますが、自己陶酔なのか、禅宗の座禅瞑想の様なものなのか、眼が見えるなら、見開いて南無妙法蓮華経の本尊を見て、南無妙法蓮華経を念じ、南無妙法蓮華経の仏性を確認する事こそ正しい姿であります。つまり、南無妙法蓮華経と唱える時には、自分に与えられた眼、耳、鼻、舌、身の五根(五感)の条件の全てを懸けて、南無妙法蓮華経を念じなければいけないのであります。特にこの五根の要となる心にこそ南無妙法蓮華経と受持念じなければいけないのであります。それを乱すものは全て煩悩雑念なのであります。
 かく言う私も、長年煩悩雑念の海を溺れもがくように漂いながら勤行唱題する状態でした。その為この問題の答え探し、沢山の先輩に尋ねたり、本を読んだりしてきました。その中で、日寬上人の、
「當家三衣抄」(学林教科書347p)
 南無佛・南無法・南無僧とは若し當流の意は、南無本門壽量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境地冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
 南無本門壽量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の當体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。
 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、傳法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。
 此くの如き三寶を一心に之れを念じて唯當に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云。
 の指摘が、極めてピンポイントな内容だと思い、何年か実行してみました。長い文章ですから、全文を記憶して実行するわけにはいかないので、この文章を目の前に置いて、御題目を唱えます。日寬上人はどうやって実行していたのでしょうか?南無妙法蓮華経と一回唱える4秒位の間に、
 南無佛・南無法・南無僧とは若し當流の意は、南無本門壽量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境地冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。
 と、これだけの内容を心に念ずる事は不可能な事であります。そこで、南無妙法蓮華経と一回唱えながら【仏】、南無妙法蓮華経と唱えながら【法】、南無妙法蓮華経と唱えながら【僧】、という順序で唱える様にしました。しかし、これとても、仏法僧の順番が混乱して、アレッさっき何だっけという状態が再三起こります。しかし良く考えると、そもそも仏の南無妙法蓮華経、法の南無妙法蓮華経、僧の南無妙法蓮華経というのが存在するのかという根本的疑問が湧いて来ました。単純に物理的にどうして不可能な事を日寬上人は説示しているのか、日寬上人はどの様に実行されていたのか、不思議でなりませんでした。加えて、仏・法・僧の法が、南無本門戒壇の大御本尊という表現でありますが、南無本門壽量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の當体、事の一念三千、無作本有の法は、森羅万象一切衆生の生命に遍満するものであり、本門戒壇本尊だけに存在するものではないのであります。法を指し示す為に顕わした物が本尊であり、本尊だけが法では無いのであります。論理の脈絡が、まったく繋がらないのであります。日寬上人が19歳という人格形成がすっかり出来上がってから出家した江戸時代以前から、もう大石寺には、血脈相承貫首絶対、戒壇本尊絶対の法義に毒されていて、日寬上人も、その洗脳教育を初めから、どっぷり受けたから、この様な論理の飛躍というよりも、荒唐無稽な説得力の無い表現になってしまっているのであります。血脈相承貫首絶対も、要法寺からの貫首流入、法門改変の時代を目の当たりにし、大石寺法門是正に尽力された経緯からして、血脈相承貫首絶対で無い事は百も承知の矛盾の上で、血脈相承貫首絶対の貫首一人の権威によってしか大石寺組織を守れないという現実を飲んでの言動なのであります。
 私も、雑念に苛まれ、雑念の海で溺れそうに御題目を唱える、まさしく荒凡夫の一人ですので、どうしたらいいのか自問自答しながら、少しでも雑念のない勤行、唱題になる様にと思いながら、答えを求めながら、一人一人の御信者さんの思いに合わせて、受け答えをしていました。しかし、一切衆生に共通した真実の解答が有るはずだと、心の中でさまよい求めていた今から5,6年前に、Aさんという、産まれたときから眼の見えない全盲の御信者さんに出会った。私は、心の中に土足で入って行くような失礼をかえりみず、そのAさんに思わず尋ねてしまった。
 「眼が見えないという事は、どの様にして御経と南無妙法蓮華経の御題目を唱えているんですか?」するとAさんは、自分の今まで歩んで来た、信心に関わる道程の概略から、かいつまんで話してくれた。
 「私が眼が見えない状態で産まれて来たために、両親はうろたえ、何かの祟りではないか、何かの信心におすがりすれば、眼が見えるようになるのではないかと考え、創価学会に縁し、日蓮大聖人の信心に入りました。でも、学会活動をして、御題目を沢山唱えれば、我が子の眼が見えるようになると言われ、私の眼球は、母が妊娠時より胎内での発育不全が原因なので後転的に見えるようになる可能性は無いと言われていたにもかかわらず、奇跡が有るのではないかと一所懸命何万遍と唱えていました。そして何の改善変化も無い状況が続くと、幼い私に対して、これは過去世に大謗法を犯した悪業によって眼が見えなくなってしまったのだから、罪障消滅の御題目を、あなたもあげなさいと3歳位の時から、唱えさせられました。おまえは悪い人間なんだ、おまえは悪い人間なんだと言い続けられると、自分でも自分は罪業の深い人間なんだ、御本尊様にお詫びしなければいけないんだ、お詫びの為、罪ほろぼしの為に産まれて来たんだと、恥ずかしい存在の様に、自己否定の心で生きていました。私に御題目を唱えさせる為に、私は、盲学校で習う点字のポツポツした記号状の南無妙法蓮華経しか分からないので、今は使っていませんが、両親が紙粘土で、御本尊様の中央の南無妙法蓮華経日蓮と、長いひもがくねくねしたような花押、右隅の梵字の不動明王、左隅の愛染明王の御本尊様の基本型を作って、他の諸仏、諸菩薩、天台大師、伝教大師等々は、字が小さく紙粘土では表現することが難しいので省略し、言葉で説明してくれました、そのおかげで、心の中に、ずっとそのイメージが有り、勤行をする時に、心の中心に浮かんできます。この事は、すごく両親に感謝しています。しかし、眼が見えないほとんどの人達は、漢字の南無妙法蓮華経や平仮名のなんみょーほーれんげーきょーのイメージは無く、点字のイメージを抱いて御経、御題目を唱えているはずだと想います。
 昭和52年に、創価学会の中で池田大作さんが現代の日蓮大聖人だとか、御本尊を作ったという話を聞いて、この団体にいたら日蓮大聖人の教えから完全に離れてしまうと考え、両親と共に創価学会を脱会し、とりあえずどの御寺であろうと正信覚醒運動をしている御寺に所属すれば、正しい信仰が出来るもんだと考え、参詣しやすい自宅から一番近い御寺へ所属しました。すると、その御寺の住職も、創価学会と同じ様に『過去の宿業が深いから、眼が見えない身体で産まれて来たんだ、次に産まれてくる時には眼が見える人間になる様一所懸命御題目を唱えるんですよ。』と言うのであります。私はがっかりしました。日蓮大聖人は、「撰時抄」(全260p)に、「彼の天台の座主よりも、南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし」この様に示されているということは、世間に置き換えれば、どれほど大きな権力、財力、名声を誇る国の王様になる事を求めるよりも、眼が見えない、口がきけない等の障害を持っていても南無妙法蓮華経を信じる人間として生きる方を求める。という事を説かれていると思います。現世はあきらめ、死んで生まれ変わる未来世に希望を抱けではなく、過去世にも、現世にも、この瞬間瞬間に歓び、勇気、希望を抱けるのが日蓮大聖人の教えのはずなのに、人間に宿業という烙印を押して、人を蔑み、心を拘束する事は、何の救いも希望も無い事で、絶対日蓮大聖人の教えとは違うと思いました。僧侶まで創価学会教学と呼ばれるものに洗脳され、その事にも気付かないで、創価学会を批判しながら、創価学会に毒されてしまっているんだと、とても暗澹たる気持ちになりました。その住職は、正信会が宗教法人設立賛成と反対で分裂するゴタゴタが起きた時、『やっぱり戒壇本尊絶対、貫首は現代の日蓮大聖人だからなあ、でも阿部さんもめちゃくちゃだし、俺は中立で行くわ』と言って、宗教法人正信会から離れて行きました。戒壇本尊絶対、貫首絶対を言うなら、大石寺と同じじゃないか、正信会を名乗る必要なんか無いじゃないかと思いました。
 私達家族は、次の所属寺院を求めなければいけませんでした。両親と私と3人で、もう近くて参詣しやすいからという理由で寺院を選ぶのは止めよう。半年程法要に参詣させて貰って、この住職は依法不依人の指導をしている、と判断した時点で3人で話し合って所属願いを出そうと衆議一決しました。遠い御寺も含め3ヶ寺に参詣し、半年後、思っている事を正直に家族で話し合い現在の住職を選びました。そして改めて、私の境遇、私が歩んで来た道程を家族3人で住職に洗いざらい話をしました。住職から、『日蓮大聖人の法の中には、《人間革命》も《宿命転換》も《宿業を断ち切る》も無い。』と、口癖の様に説法され、今まで創価学会で教えられて来た事は一体何だったんだろうと愕然としました。その上で、『あなたが何故眼が見えない体で産まれて来たかは、世の中の生命は全部凡夫だから、誰も分からない、それなのに未来世が分かった振りをして、過去世を見て来た様に裁き断言する愚劣な凡夫が沢山いるんだ。産まれて生きている全ての人々は過去に良い善業も、悪い悪業も沢山して来て、善悪不二全てを抱えて生きているんだ。良い善業だけ固まっている生命、悪い悪業だけ固まっている生命なんかないんだ。十界互具の生命なんだ。過去世の事に縛られおびえ生きていくんじゃなくて、どんな身体で産まれて来ても、どんな劣悪な時代、環境に産まれて来ても、自分に与えられた条件で生きる、善い事も悪い事も、全て自業自得が道理の仏法なんだから、あなたも、毎日、瞬間瞬間、産まれて来て良かった、生きて来て良かったと歓びの感謝と報恩の心で生き、自分を含む全ての生命に、南無妙法蓮華経の仏の生命が具わっているんだという事に目覚め、生きる事が出来る事こそ、一番大切な事だと日蓮大聖人は教えてくれているんだ、どんなに御題目を唱えても眼が見えるようにはならない、でも世の中には肉眼が見えていても、堅く心の眼をつぶってあきめくら状態で、あるがままの真実を見てない人間ばかりなんだ。貴方は南無妙法蓮華経の法眼、仏眼、を持っているんだから、自分に与えられた条件で最大限出来る事、自分にしか出来ない事をしっかり自覚して生きてもらいたい。』と、住職に言われ、初めて日蓮大聖人の教えに出会えたと感じました。創価学会の時は、どうすることも出来ない宿業という原罪を持って、卑屈な自己否定で生きる事が日蓮大聖人の教えであると思い込まされて、何の希望も無く、業が深いんだから、罪障消滅の御題目を一生懸命唱え、死んで来世に希望を抱く信心だと思い込まされていたけれども、そうじゃ無いんだという事が分かって、初めて信仰の歓びを感じる事が出来ました。その上で、私が勤行、御題目を唱える時、私は南無妙法蓮華経の法は、全ての生命に仏の生命が具わっているという法で、全ての生命に貫かれた法ですから、南無妙法蓮華経の漢字、なんみょーほーれんげーきょーの声を媒体手段として表現していますが、私には見えません、見えなくても、信心していない人にも、動物にも植物にも虫にも森羅万象全ての生命に具わっている妙法です。妙法は見えないけれども、確かに全ての生命に貫かれ存在している妙法であります。私達の心の様に、確かに有るけれども、形としてわしづかみにして突き出す事が出来ない。私は眼が見えないから、南無妙法蓮華経の法は南無妙法蓮華経の文字でも、なんみょーほーれんげーきょーの声でも無い事が分かります。家にいる時は当然御本尊様の仏壇の前に座って勤行します。御本尊様は大切で重要だと分かっています。でも御本尊様が無い所へ行っても私は常に法と共にあって、勤行、唱題をする事が出来、常に法と共に生きている事が実感出来るんです。ですから、御本尊様だけが法だとか、戒壇本尊が日蓮大聖人の法の全てで、戒壇本尊が無くなったら、日蓮大聖人の法が無くなると言っている大石寺の物信仰の愚かさと間違いを、生命で感じる事が出来ます。なんみょーほーれんげーきょーと唱えると同時に、なんみょーほーれんげーきょーと心に念じ唱える、なんみょーほーれんげーきょーと心に念じ唱えて、なんみょーほーれんげーきょーと声に出して唱える。なんみょーほーれんげーきょーと心に念じなければ、どれだけ口で唱えていても、それはなんみょーほーれんげーきょー以外のことを考えている雑念にまみれたものであり、御題目になっていない、口だけの空題目になっていることが、眼が見えない自分には分かります。何にも見えないけど、なんみょーほーれんげーきょーと唱える時に、なんみょーほーれんげーきょーと心に念ずる。それが御題目を信じ唱えるという事だと思います。そうでなければ、別々の事を考えている精神分裂状態で、こうしてください、ああしてください、人間革命、宿命転換、功徳を下さいという雑念を念ずることを唱題だと思い込み、何万遍、何万時間と御題目を唱えても、それは御題目ではありません。御本尊様は、現世利益、欲望達成の為に法を説いたので無く、全ての生命に仏の生命が具わっていることを私達凡夫に伝える為に顕わされた法ですから、私達は、その法を指し示す本尊の奥に、眼に見る事が出来ない本来の法を求め感じて信心をしていかなければならないと、私は眼が見えないからこそ、その事に気付くことが出来ました。ここに有る本尊だけが日蓮大聖人の悟った法である、ここだけ有る法なんて法は法じゃ無い、どこにでも有るからこそ法なのであるというのが森羅万象一切衆生の成仏の法でなければならないはずだと思います。」
 この様に話してくれました。
 同時期に逢うことが出来たBさんは、Aさんと違って、聾唖の障害が有り、耳が聞こえない、言語の発声が、聴覚欠如の為、幼いときからの音声言語の習得が出来ないために、言葉ではなく吠える様な発声になってしまい、Bさんは南無妙法蓮華経と唱えているつもりでも南無妙法蓮華経とは聞こえないので、皆と唱和する事が出来ず、黙って心の中で唱えなければなりません。Bさんは眼は見えますから、御本尊様の南無妙法蓮華経の姿も分かりますし、御経本の漢字もふりがなも分かります。でも声にする事が出来ないのです。このBさんにもAさんと同じ様に尋ねました。
 「どの様に勤行、唱題をするのですか。」するとBさんは、筆談で、この様に話してくれました。
 「私は、心の中で一途に強く念じ唱えます。一人の時には、自分ではなんみょーほーれんげーきょーと唱えている気持ちですので、声を出して唱えます。でも家族や他の人がいる時には、雑音に聞こえると言われるので、声を出さないで心の中で唱えます。南無妙法蓮華経と声に出す事が出来ないので、よく健常者の人から御題目を唱えていると雑念が湧いて来て困ると聞くんですが、私達聾唖の人間は、念ずる事が、唱題ですから、雑念を持ったら南無妙法蓮華経は無くなってしまうんです。だからひたすら南無妙法蓮華経を心で強く念じ唱える事が唱題なんです。」
 と、教えてくれました。
 雑念が湧くという事は、南無妙法蓮華経と口で唱えていても、心に南無妙法蓮華経と念じていない訳ですから、南無妙法蓮華経と唱えていないという事なのであります。南無妙法蓮華経と心に念じていれば、雑念の入る余地は無いのであります。雑念が心を占領していれば、南無妙法蓮華経が入る余地は無いのは単純明快な道理であります。雑念が襲って来るではなく、自分の心が雑念を招き寄せているのであります。雑念が湧いて来るではなくて、自分が湧かせているのであります。煩悩が湧いて来たらどうするかというテクニックでは無く、自分で湧かない様に南無妙法蓮華経を真摯に念ずるしか方法は無いのであります。雑念が起きたらどうするかという小ざかしいすり替え誤魔化しの克服法は無いのであります。ただひたすら南無妙法蓮華経と心に念ずる事しか無いのであります。
  土籠御書(全1213p)
 法華経を余人のよみ候は、口ばかり、ことばばかりはよめども、心はよまず。心はよめども、身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。
 身→口→意の三業は、何の順番の脈絡も無く耳当たりが良い語呂発音優先によって古来から定着した言葉であります。現実には口→意→身の順番で、初めから純粋な信仰心(意)を持てる人はいませんから、半信半疑おっかなびっくり試してみようという気持ちで、南無妙法蓮華経と唱え(口)ます。唱えているうちに、少しずつ南無妙法蓮華経の(意)になって、生き方(身)になって行くのであります。しかし、その信の心が信念として深くなって行くに従って、意→口→身と、南無妙法蓮華経の法を信じる心を抱く(意)が故に、南無妙法蓮華経と唱え(口)、南無妙法蓮華経の生き方(身)を志す。と、なって行く、なって行かなければいけないのであります。つまり南無妙法蓮華経の法を信じる心こそが、一番重要な【受持】なのであります。
 色心二法共に南無妙法蓮華経を唱えれば、煩悩、雑念が湧いてくる余地は無いのであります。という事は、煩悩、雑念が湧いてくるという事は、色心二法共に南無妙法蓮華経を唱えていないという事なのであります。
 法華経法師品第10(開結384p)
 若し復人有って、妙法華経の、乃至一偈を受持、読誦し、解説、書写し、此の経巻に於いて、敬い視ること仏の如くにして、種種に華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、繒蓋、幢旛、衣服、伎楽を供養し、乃至合掌恭敬せん。
 観心本尊抄(全246p)
 天台大師云く(玄義第8)「薩とは梵語なり此には妙と翻ず」等云云、私に会通を加えば本文を黷が如し爾りと雖も文の心は釈尊の因行果德の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
 とあり、五種の妙行の中にあって一番の源、根本は【受持】であることを【受持即観心】として直裁に示されているのであります。心で南無妙法蓮華経の法を信じるという【受持】が起きなければ、後の四つの読、誦、解説、書写の行為は始まらない訳ですから、至極当然の事なのであり、
 「末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答へて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」本尊問答抄(全365p)
つまり、本尊は【何物】紙、墨の物体であるけれども、その物体は、森羅万象、三千大千世界の全ての生命存在に具わる妙法蓮華経の仏性に目覚め受持する事こそが釈尊の因行果徳の法である事を私達一切衆生に伝える為に、法華経の題目を首題として示されているのであります。
 五種の妙行中、3番目の【誦】は、諳んずる、暗記すると解釈されている人々が大半ですが、諳んずるとは、長年御経本を見て読んでいる内に、暗記して、御経本を見なくても読めるようになったという事を【誦】と言うのでは無いのであります。【誦】とは、御経の一字一字を暗記して、御経を見なくても、方便品、壽量品を書き出す事が出来るという事なのであります。読経中に突然くしゃみが出たり、異常な音がしてビクッと驚いたら、どこを読んでいたか分からなくなってしまったり、三回繰り返す十如是が何回目か分からなくなったり、今何座目を読んでいるのか分からなくなったり、という様な事では到底【誦】になっていないのであります。という事は、【誦】が出来ている人はほとんどいないのであります。【誦】でなく単なる空暗記をしているから、煩悩雑念が湧き起こるのであります。意→口→身と、受持根本の読経唱題をすれば、煩悩雑念は決して湧き起って来ないのであります。
2024/10/30