法華文句(智顗)巻八下大34-117
「佛の受けたもうこと疾きとは果を獲ること速かなるなり(中略)胎経に云く、魔梵釈女は皆身を捨てず身を受けとれるして、悉く現身に於て成仏することを得」
(一切経典は何を目的として説き出されたのかといえば、一切衆生平等成仏であります。その人の人生を改めず、その身のまま成仏する事を得る事こそ大切なり)
※【胎経】
中国の姚秦(後秦)の竺仏念訳、正式名称「菩薩従兜術天降神母胎説広普経」と言う、「菩薩処胎経」「処胎経」とも略称される。釈尊が涅槃する時、釈尊が忉利天(欲界の第二天)にいる母摩耶に説いた経を多聞第一と称された阿難さえも聞いたことが無いと言った為、神通力をもって、空、六道、女人成仏、現身成仏(即身成仏)等々の法を説き、弥勒菩薩に付嘱して涅槃に入り、その後、自ら滅後の仏舎利の配分、造塔の内容が説かれ、結びは、迦葉が上首となって経典を結集することが指示されている。
法華文句記(妙楽)巻八の四大34-314
「若し即身成仏にあらずんば、此の竜女の及び胎経の偈は云何が通ぜんや」
法華秀句(最澄)巻下伝3-266
「能化所化倶に歴劫無し、妙法の経力を以て即身に成仏す」(妙法経力即身成仏)
法華経28品の中には【即身成仏】の語句はありません。
智顗、妙楽、最澄等々の法華経通解解釈の中で、法華経が【即身成仏】の唯一無二の法であることを説示されているのであります。つまり、法華経28品の中で【要當説眞實】の十界互具の一切衆生平等成仏の法を説き切られた事を、端的に要約して【即身成仏】と解釈表現されているのであります。
世間一般では、法華経【提婆達多品第十二】(開結433p)に、竜女(女性であり人間以外の畜生)の成仏を説きますが、
「当時の衆会、皆竜女の、忽然の間に変じて男子と成って、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて、宝蓮華に坐して、等正覚を成じ、三十二相、八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に、妙法を演説するを見る。爾の時に娑婆世界の菩薩、声聞、天龍八部、人と非人と、皆遙かに彼の龍女の成仏して、普く時の会の、人天の為に法を説くを見て、心大いに歓喜して、悉く遙かに敬礼す。無量の衆生、道の記を受くることを得たり。無垢世界六反に震動す。娑婆世界の三千の衆生、不退の地に住し、三千の衆生、菩提心を発して受記を得たり。智積菩薩、及び舎利弗、一切の衆会、黙然として信受す。」
と示され、法華経に於いても、【変成男子】の男尊女卑の成仏觀ではないかと表層的短絡的に読み、早吞み込みされている人々が多いのですが、この経文を冷静に良く読めば、男尊女卑の女性蔑視ではなく、竜女成仏に疑いを抱く、智積菩薩、舎利弗に、その場で即座に、早送り映像の様に、釈尊が神通力を使って、その場で竜女を男に変身させ、妙法蓮華経を信心修行する菩薩の修行をさせ、普く十方の一切衆生の為に、妙法蓮華経を演説する仏になった竜女の姿を見せ、成仏には性別の優劣はなく、一切衆生平等即身成仏の唯一無二の妙法蓮華経であることを明示しているのであります。当然、竜女一人だけの成仏を表現しているのでなく、人間以外の一切の生命の代表としての竜女なのであります。提婆達多も、提婆達多一人だけの悪人成仏を表現しているのでなく、森羅万象、全ての殺人鬼と化した、地獄、餓鬼、畜生、修羅等々の生命を抱えたままの生命でも成仏する事が出来るという事を提婆達多を代表として表示しているのであります。しかし、提婆達多の未来成仏も竜女成仏も、十大弟子の授記成仏も、それまでの成仏觀を破す画期的なものですが、【即身成仏】では無いのであります。
【即・卽】とは【すなわち】という意味で、前後の状況が直結し同体という事。「すぐに」「ただちに」、時間的に始終因果の区別なく【因果倶時】同体である事を表現しています。時間的側面から言えば、始中終区別なく同時という事であります。存在で言えば、【あるがまま・そのまま】という事であります。つまり、十界互具の凡夫の生命のあるがまま即座という事であります。日蓮大聖人の法では、【名聞名利】を嫌い、【示同凡夫】を大切にします。つまり、あるがままの十界互具の生命そのままを虚勢や虚飾でごまかさないで只正直に一切衆生平等成仏の法、南無妙法蓮華経を信ずる事の大切さを説いているからであります。
この事から【一念】と【刹那】は、同じ目的觀に立って同義に用いられていると解釈する事が出来ます。
この【即身成仏】と同様に仏教一般に【刹那成道】という表現も有ります。大石寺に於いても、「本尊七箇相承」「産湯相承事」と同列に後世の偽作であるとされる「本因妙抄」に於いて、【刹那成道】【刹那半偈成道】という表現が使われています。またこの「本因妙抄」を真筆と信じ表わされた、「観心本尊抄文段」「報恩抄文段」には【刹那始終一念の因果】という表現がされていますが、日蓮大聖人の著述全体には【即身成仏】は有りますが、【刹那成仏】は用いられていないのであります。
【勝鬘寶窟中末】に「外國刹那と稱此れ念と云う也」
【探玄記十八】「刹那者。此念頃と云う。一弾指頃に於いて六十刹那有り」
【倶舎論十二】「一疾弾指六十五刹那有り」
【仁王経上】「一刹那九百刹那を経る」
この様に、一刹那、60、65、900と色々な説が有りますが、【即】と同意で、始中終区別無く同時という事で、【即・卽】と同義であります。つまり、【即身成仏】と【刹那成道】は同じ意味意義目的を表現しているという事になりますが、【刹那成道】は、刹那であっても時間の経過を表現しているので、時間的経過の無い【即身成仏】の方が、より法華経十界互具成仏を適正に表現している事が分かります。
【一念】も【即・卽】【刹那】と意味する方向性は同意同義であります。【念】という字は【今】と【心】で構成されて出来ていますが、この【今】は【現在】だけの【今】では無く、【過去・現在・未来】の永遠常住の時が一体化している【今】であります。【刹那】も、世間一般には、【刹那主義】に象徴されるように、今だけ良ければ良いという、今だけの瞬間の快楽追求満足ではなく、この瞬間に成仏が有るという意味なのであります。【一念】の【念ずる】を創価学会や世間一般では、【一念岩をも通す】の諺の様に、自分の目標、目的、願望等々を心に強く【念】ずる事を【念】ずるという個人主体の現世利益を肯定して、【南無妙法蓮華経】の御題目を唱えながら、自分の希望を【念】ずる、その為に【南無妙法蓮華経】を一萬遍、十萬遍、百萬遍と唱えれば唱えるほど叶う。叶わないのは【念】じ方が足りないからだ、信心が足りない、題目が足りないからだ、「願いとして叶わざるは無しの信心だ」と、成仏の【大願】が叶う法は、八万四千の全ての仏教経典の中で、法華経しか無いという意味の「願いとして叶わざるは無し」を、個人の現世利益の願い事にすり替えて間違った指導をしているのであります。ですから当然、口は【南無妙法蓮華経】と唱えていても、心の中は自分の願い事であり心も一緒に【南無妙法蓮華経】と唱えていないのであります。法華経の行者の【念】ずるとは、自己の願い事を【念】ずる事ではなく、一切衆生平等成仏の法【南無妙法蓮華経】を【念】ずる事なのであります。口で【南無妙法蓮華経】と唱えると同時に、心で【南無妙法蓮華経】と唱える。それが【念】ずるなのであります。本来信心とは、心が【南無妙法蓮華経】と【念】ずるが故に、口が【南無妙法蓮華経】と唱えるという順序が正常でなければならないのであります。願い事を取り立てて【念】じなくても、全てを【南無妙法蓮華経】に信じ任せる事によって、自分が気づかないで見失っている大切な事柄に至るまで含んで、【南無妙法蓮華経】の法によって成仏の大願に至るのであります。現世利益の【念】は、煩悩、雑念、迷心、我欲、我利我利亡者でしかありません。ですから、当然の如く、日蓮大聖人の法には、創価学会が作った【人間革命】も【宿命転換】も【宿業を断ち切る】等々も一切無いのであります。
【四信五品】分別功徳品第17(開結517p)【四信】①一念信解②略解言趣③広為他説④深信觀成【五品】①初随喜品②読誦品③説法品④兼行六度品⑤正行六度品。
日蓮大聖人は、【四信五品抄】(338p)に於いて、【四信】の①一念信解(一念の信仰心を起こす)と、【五品】の①初随喜品(釈尊滅後に法華経を聞いて随喜の心を抱く)が末法の正意であると示されています。という事は、この【一念信解】と【初随喜】が、日蓮大聖人の【名字即】と判断する内容要素という事になるわけであります。
【五十二位】【菩薩瓔珞本業経巻上】に別教と円教の菩薩の、十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚の、大乗の菩薩が最初に菩提心を起こしてから、修行を積み成仏を遂げるまでの五十二の階位の事でありますが、これも六波羅蜜と同様に歴劫修行の発想であります。日蓮大聖人は【観心本尊抄】(全249p)で、「迹門十四品の正宗の八品は一往之れを見るに二乗を以て正と為し菩薩凡夫を以て傍と為す、問うて曰く其の証如何ん、答えて曰く法師品(第十)に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」宝塔品(第十一)に云く「法をして久住せしむ乃至来れる所の化仏当に此の意を知るべし」等、勧持(第十三)安楽(第十四)等之を見る可し迹門是くの如し、本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す所謂一往之を見る時は久種を下種為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始めは一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。」
この様に、五十二位に表現され、等覚、妙覚の成仏を遂げる為には、釈尊在世時代、正法時代、像法時代の歴劫修業の、脱(仏中心)の考え方では無く、末法は、種(妙法蓮華経の法中心)の考え方に発想を転換しなければ一切衆生平等成仏は出来ないと、示されているのであります。つまり像法時代視点の五十二位中の【名字即】を借りて【名字即】と主張していますが、歴劫上の五十二位【名字即】を否定しているので、末法における【名字即】とは、全く違う内容になっているのであります。
【六波羅蜜(六度)】大乗の菩薩が迷いの此土から悟りの彼岸に至るために修行しなければならない六種の修行。①布施②持戒③忍辱④精進⑤禅定⑥智慧
仏教徒の修行の教育課程科目として、この六種が大切とされています。しかし、これは人間界の菩薩界だけの事柄であり、法華経の行者として生きる法華経以前の爾前の菩薩の修行であります。そしてこの六種を実行しようとすれば、何年も生涯に渡って退転無く持続し貫き、不足ならば、生まれ変わり死に変わり修行を続ける歴劫修行の内容にほかなりませんから、【即身成仏】【刹那成道】にはなりません。一般仏教の概念と日蓮大聖人の教え【一念】【即身】の発想とは、根本的に構造が違うのであります。
【一念三千】一切衆生、個々の生命が起こす一念心に三千の諸法が包含具足する事。【一念】は、【刹那】の心のあり方を言い、【三千】は無量無辺森羅万象全ての生命存在を表現する。つまり【一念】に【三千】の全てが納まっている事を表現しているのであります。天台大師(智顗)が、法華経を解釈表現する上で、摩訶止観巻五上(大46-54)「夫れ一心に十法界を具す、一法界に又十法界を具すれば百法界なり、一界に三十種の世間を具す、此の三千、一念の心に在り、若し心無くんば已みなん、介爾も心有れば、即ち三千を具す」と、極小微細刹那の【一念】と極大無量無辺の【三千】は、上下、幹枝の関係でなく、相即相関、同等一体となっている事を示しているのであります。つまり、全ての生命は繋がっていて、終わりも無く始まりも無い無始無終永遠常住であり、個々の生命も、全ての生命の一分であり、全ての生命が繋がっているが故に自分の生命が存在して、平等である。この法(道理)を【妙法蓮華経】と示し、全ての生命に当然の如く【妙法蓮華経】の仏性が具わっている事を【一念三千】の法門は明示されているのであります。この【妙法蓮華経】に、【南無帰依帰命信心修行】する事の大切さを、仏は衆生の立場に立って、【南無】を付け【南無妙法蓮華経】と表わし、日蓮大聖人は御書の中で、五字七字の題目、七字五字の題目と表現されているのであります。法華経は、この【一念三千】の法門を唯一無二の法、一切衆生平等成仏の法として示された経典であります。この【一念三千】の法における【一念】を【爾前】の概念から現実的に思考すれば、【南無妙法蓮華経】と唱えるだけで約3秒を要します。ですから、【刹那】では唱えられませんし、【刹那】ではないのであります。そして【刹那】も指弾、六十刹那、六十五刹那、九百刹那等々と時間経過的に言いますが、その0,000コンマの瞬時に【南無妙法蓮華経】を心に浮かべる事も、自らの心模様として把握さえも出来ないのであります。という事は、【一念三千】の【一念】とは、本来、時間経過概念では無く、時空を超越した、自他の根幹に具わる仏性を、説明し難くも、信じ実感し、歓喜の心が湧く、時空間では限定把握出来ない瞬間を【一念】【即身】と表現しているのであります。そして、この【一念】こそがイコール【即身】なのであります。加えて【一念】という一滴が大海【三千】という関係構造になりますから、【一念】は、【三千】の基軸になる【十界互具】の生命という事になるのであります。つまり、森羅万象の全ての生命は、悉く【十界互具の生命】【一念】という事なのであります。
地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界
この様に十界互具の生命を表現しますので、【仏性】と言うと【仏界】と、意味、表現、目的、感情が違うと思われている方々が沢山いますが、十界互具の生命は、
地獄性・餓鬼性・畜生性・修羅性・人間性・天上性・声聞性・縁覚性・菩薩性・仏性
という事であり、界という境界がはっきり限定された空間の中に厳封されている境界の有る性根でなく、境界無くグラデーションの様に、かつ無作為、不規則に複雑に混じり合い刹那刹那に転変して行く、性なのであります。つまり、地獄性→餓鬼性→畜生性と段階的に移行するのでなく、地獄性→仏性→畜生性→菩薩性という具合に不規則、不順に転変変化するのであります。つまり【仏性】と【仏界】は、当然同一なのであります。
【諫暁八幡抄】(全585p)
今日蓮は去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間 又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり、天台伝教の御時は時いまだ来らざりしかども一分の機ある故に少分流布せり、何に況や今は已に時いたりぬ設とひ機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ、只不軽のごとく大難には値うとも流布せん事疑いなかるべきに
【名字即】
①仏法の名字(妙法蓮華経)を見る、聞く、触れる縁の位。
②知識に従い、経巻に従い、理即の一切衆生悉有仏性なりと理解する事。
【大日経】では、十住に依って十位を明かし、十地の十位を明かします。
【勝天王般若経】では、十地の十位を明かします。
【金光経】では、十地、妙覚の十一位を明かします。
【唯識論】では、十住、十行、十廻向、十地、妙覚の五十一位を明かします。
【智度論】では、等覚を加えて四十二位を明かします。
【仁王般若経】では、十信、十行、十廻向、十地、妙覚の五十一位を明かします。
【華厳経】【菩薩瓔珞経】では、等覚を加えて五十二位を明かします。
【秘蔵記】では、十信、十住、十行、十廻向、十地と、十廻向の終わりの煙頂忍世第一の四善根を加え、五十四位を明かします。
【首楞厳経】では、【秘蔵記】五十四位に、等覚、妙覚を加えて五十六位を明かします。
このような、それぞれ違う観点の違う成仏感の中で、智顗は五十二位を立てているのであります。
しかし、これ等の説は全て、像法時代の歴劫修行の観点からのものであり、妙覚に至る順序階段という発想は同じであります。
日蓮大聖人は、仏滅後二千年経った、【大集経】巻五十五「次の五百年(末法)には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没」つまり無仏、無法の末法時代の観点から、この五十二位の中で、強いて当てはめると言えば、【名字即】に信を立て、同時に、【名字即】の所にこそ成仏【妙覚】が有ると明かしている訳ですから、全く発想の基盤が違うのであります。天台大師始め、各師の説は、歴劫修行の階段の一つに【名字即】を数えるという②の解釈であります。日蓮大聖人の【名字即】の解釈は、①の【諫暁八幡抄】に示されている内容であります。同じ【名字即】という名称であっても同名異体、全く意味内容目的が違うのであります。産まれたばかりの赤子は、自分がこの世に生まれて来たという自覚、自分という存在を自分で認識する自我さえありません母乳が何かも分からず、目の前に出された母乳を疑いなく信じてゲップが出るまで吸い飲み腹一杯になり、眠ります。そして又起きて吸い飲む。この目の前の、母乳を与えてくれる人が誰かも知らず、信じ、この母乳が、自分にとって何になるのかも、栄養素も分からず、本能として無意識に吸い飲み成長して行きます。赤子の時に、起きては寝て夜中でも飲み続けた、母乳は70,80,90歳になった人間の体の何処にあるのか分からないけれど、その一回一回の母乳があったからこそ、私達は今生きていられるのであります。仏性とは、そういう、心の様に確かに有るけれども手に掴んで取り出せないもの、自覚、意識していなくても具わっているものなのであります。それが、妙法蓮華経だと、日蓮大聖人は示されているのであります。つまり、南無妙法蓮華経に縁せしめ、自分を含む森羅万象全ての生命に南無妙法蓮華経の仏の生命が具わっていますと、折伏弘通します。そうすると、無視、無関心、しらけ、怒り、反発、反論、軽蔑、嫌がらせ、差別、憎しみ、攻撃等々してくる人々が当然出てきます。しかし、この南無妙法蓮華経の法こそが、自由と平等と平和の成仏を遂げる為の唯一無二の真実の法であることを一切衆生に、母が乳児に母乳を飲ませる様に、与え伝え縁せしめていかなければならないのであります。
【上野殿御返事】(全1546p)
今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし。
【三因仏性(正因仏性)(縁因仏性)(了因仏性)】は涅槃経の中で説かれます。という事は、涅槃経は法華経の【落ち穂拾い】の御経ですから、釈尊が涅槃に当たり、再度法華経の大切さを説いているのであります。
【三因仏性】を織田仏教大辞典によって調べれば、
【正因仏性】とは、一切の邪非を離れた真如。法身の果徳を成就すれば正因仏性。
【縁因仏性】了因を縁助して正因を開発せしむる一切の善根功徳。
【了因仏性】真如の理を照了する智慧、これによって般若の果徳を成就すれば成仏。
とあります。しかし、この解釈では像法時代の観点における【五十二位】と何ら変わりません。
末法時代の、十界互具、一切衆生平等成仏、全ての生命に仏の生命が具わり、全ての手の生命に仏となる資格が有るという観点からすれば、
【正因仏性】全ての生命には本然として仏性が具わっている。
【縁因仏性】南無妙法蓮華経に微かでも触れ聞き見る縁によって正因仏性を感じる。
【了因仏性】南無妙法蓮華経の仏性を自覚し能動的に法華経の行者として信行学に勤め、折伏弘通の生き方に励む。法華経の行者として生きる事自体が成仏。
という事になります。つまり五十二位に重ねて言えば、【正因仏性】は【理即】、【縁因仏性】は【名字即】、【了因仏性】は【妙覚】という事になるのであります。日蓮大聖人の「今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし。」の法門に立てば【縁因仏性】の中に【正因仏性】も【了因仏性】も包含されるのであります。
【毒鼓の縁】涅槃経巻九大12-420「雑毒薬を以て用いて太鼓に塗り、大衆の中に於いて之れを撃ちて声を発さしむるが如し、聞かん欲するに心無しと雖も、之を聞けば皆死す」
古代インドでは昔、戦争の時の武器の一つとしてこの【毒鼓】を使用していたと言われます。敵の風上で、太鼓の皮の表面に毒を塗り乾かしてバチで打つと、毒が震動で微粉末になり、風に乗って敵陣の兵の眼鼻口に知らぬ間に入り、苦しめ、戦意を喪失させ戦況を優位に展開させるという武器であります。いくら風上からでも、太鼓を撃っている兵が一番に毒を吸いやられてしまうという漫画の様な理屈で納得出来ないのですが、歴史上実際に使用されていたか否かは分かりませんが、仏教経典の中で、それも法華経を補足する涅槃経の中で、妙法蓮華経の法に縁する事の意味、大切さを【聞法下種】として、一切衆生に伝える為の譬えの小道具として用いられているのであります。
日蓮正宗の寺院では、朝夕の勤行、法要の勤行の折の唱題時に、参詣者の人数の多寡に関係なく、住職一人の勤行でも太鼓を打ちます。これは唱題の調子をとるというだけの意味では無く、近隣の人々に南無妙法蓮華経の縁に触れて貰う為であります。日蓮正宗では使用しませんが、身延日蓮宗系の団扇太鼓も淵源は同じだと思いますが、これは、さりげなくを越えた、俺達は行じているぞと、強引に世間にアピールする為の行為に見えます。本堂での勤行時における太鼓の音を、本堂の外から微かに聞くと、その人の心に、山寺の時を告げる梵鐘の音色の様に、(御寺に隣接する住宅があったり、三交代の仕事で、昼間が睡眠時間の人が住んでいたり、騒音の苦情として警察に通報する人が住んでいたり、さすがに御寺の早朝の勤行時間は、一般家庭の起床時間より早く、迷惑をかけるという事から、御寺であっても太鼓は叩けない梵鐘を打てないという寺院もありますが)規則的に聞こえるあの音はなんなのだろう、ああどこかで太鼓を叩いているのかな、何処だろう、南無妙法蓮華経の調子だなあ、俺の家は南無阿弥陀仏だから嫌だなあ、気に障るなあ、生理的に嫌いだ、ここら辺に法華の御寺があるのかなあ、あそこの寺かな、へ~え、という具合に、心が何の構えも無い状態で、無防備、無意識に色々な人々に色々な心模様を引き起こします。そして、人間だけでは無く、人間から言語化したコミニケーションを取る事が出来ない、鳥、虫、魚、植物、空気、光、土、石、水等々の生命も全て十界互具の生命として同様に南無妙法蓮華経の仏性が具わり、南無妙法蓮華経の【毒鼓の縁】によって覚醒自覚し必ず、山川草木も悉有仏性、成仏する事が出来ると説いているのであります。この縁が、即座に自分にとって大切な法だと信じる縁になる生命もあれば、いつか、やがて、生まれ変わり死に変わって百年、万年先であっても、この外的縁が、自らの内的縁となって、南無妙法蓮華経を信じ行ずるきっかけになるというのであります。この事を【而強毒之】(法華文句巻10上大34-141)
「本と未だ善有らざれば、不軽は大を以て而して強て之れを毒す」つまり、常不軽菩薩が出合う人ごとに合掌して二十四文字を唱える行が【而強毒之】だというのであります。つまり一切衆生平等成仏の正しい法だからという理由で、強権的、強制的、脅し、武力、殺戮、制圧、差別、暴力洗脳等々は絶対にあってはならない行為であります。大石寺、創価学会、顕正会は、【強折】を間違って解釈し、天皇折伏、世界広布を主張し、強引な上記の行為を正義と主張して来ました。今はしていないと言いますが、【邪宗撲滅】の心情は持ち続けています。そうではなく、成仏出来ない法を信じる人々と共生しながら、南無妙法蓮華経の縁を送り続ける事が、末法法華経の行者の生き方なのであります。
あくまで徹底して、常不軽菩薩を【自分の生命】、一切衆生を【他人の生命】と構成すれば、【毒鼓の縁】【而強毒之】の妙法蓮華経の縁は、あくまでも自分が、いつでも、どこでも、誰にでも、何度でも、強言、脅し、虚言、強制でなく、洗脳でなく、道理を立てて、穏やかに、理論的に静かな独り言のように、ささやくように、縁を結び、あくまでも本人自身がその縁に触れ信じ行ずるか否かを決めるのであります。キリスト教が十字軍と共に国々を制圧し、キリスト教を、その国の国教として行ったと同次元で、南無妙法蓮華経の信仰しなければバチが当たる、やれば功徳が有る、福運がつく、人間革命が出来る、宿業を断ち切る事が出来る、多人数の組織形成を目的とし、広宣流布に名を借りた、国家征服、世界征服や地域征服、政治権力を握る、洗脳や脅し強制等々の【現世利益】を目的とした手段として、百万遍千万遍の南無妙法蓮華経を唱えようが、それは南無妙法蓮華経の仏性に関わる【毒鼓の縁】【而強毒之】には全くなら無い我利我利亡者の似て非なる、南無妙法蓮華経なのであります。同様に釈迦如来を本仏とし、南無妙法蓮華経を唱えても、釈迦如来におすがりする為の手段の南無妙法蓮華経ですから、常不軽菩薩の南無妙法蓮華経とは全く違うもので、仏性を呼び起こす、成仏に通ずるものではないのでありますから、南無妙法蓮華経と唱えていても、南無妙法蓮華経の縁にはならない空題目なのであります。
法華経では、提婆達多品第十二に説かれる様に、自らの名聞名利の為に、釈尊殺人計画を実行し、生きながら地獄へ堕ちた、殺人鬼、提婆達多でさえも、生前法華経の信心修行をしていた縁によって、十大弟子でも無いにもかかわらず、未来、天王如来として仏になれると記別を受けているのであります。法華経に於いては、法華経誹謗の罪でさえも、法華経の縁と捉えるのであります。地獄へ堕ちる事よりも救い難き者は、【不聞三寶名】の衆生、【三寶(法・仏・僧)】つまり【三寶】に貫かれた妙法蓮華経の法を、聞く事も、見る事も、触れる事も無い生命は、母港を持たない難破船の様に、中有にさまようだけで、地獄へ堕ちる事も成仏する事も出来ないというのであります。つまり、妙法蓮華経の【縁】こそが、一切の生命に本然として平等に具わっている妙法蓮華経の仏性を揺り起こす力用なのであります。【常不軽菩薩の二十四文字】は、【我深く汝等を敬う】として、あなた方に【下種】してあげようでは無く、どんな不信謗法者であろうとも、最初から本然として平等にあなた方に具わっている南無妙法蓮華経の仏性を前提として【菩薩の道を行じて當に作仏する事を得べし】つまり南無妙法蓮華経の法華経の行者として生きる事によって、南無妙法蓮華経の仏に成る事が出来る事を伝え、この事に目覚める様にと示されているのであります。
壽量品第十六の「良医の譬え」に示されるように、飲毒し、のたうち回り苦しむ子供に対して、親は口をこじ開け、かみ締める歯を砕いてでも薬を飲ませる事をしないで、「今留在此」として、あくまでも子供自身が信じて手に取り飲むように言うだけで、再度、旅に出て、親は旅路で亡くなったという方便を通じて、子供達が悲しみの中で、親の最後の言葉を想い出し、薬を飲む決断をするという、どこまでも子供自身が信じ、手に取り飲むという、信じるという事が全てを決定する事を徹頭徹尾貫いているのであります。
【中興入道消息】(全1334p)
去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて兜率の内院に生れん、況やかのそとばに随喜をなし手をふれ眼に見まいらせ候人類をや
十界互具のすべての生命、存在、人間界以外の動物、植物、水、土、砂、石、光、空気等々の生命の成仏、人間も人間の生命を支えてくれる生命が有るからこそ人間として存在する事が出来るのであります。否、人間中心の思考ではなく、全ての生命が支え支えられあっているからこそ全ての生命が存在しているのであります。水も空気も野菜も肉も、人間の身体に入れば人間なのであります。人間は人間だけでは生きられないのであります。法華経以前の教えは、人間のみが説法の対象者でした。しかし、法華経は全ての生命は十界互具の生命であり、山川草木一切衆生悉有仏性であると、全ての生命が繋がっているからこそ全ての生命が存在するという【妙(空)法(風)蓮(火)華(水)経(地)】一念三千の当然の究極の生命観を全ての生命に共通共有平等に示しているのであります。当然、【五大(地水火風空)】の【地】にも十界互具の生命、【水】にも十界互具の生命、【火】にも十界互具の生命、【風】にも十界互具の生命、【空】にも十界互具の生命が具わっているわけですから、永遠常住の大海は、壮大な無始無終永遠常住の循環する妙法蓮華経の法(道理)を中心にした、十界互具一念三千の大海なのであります。
ドイツの数学者メビウス(1790~1868)が、1858年に全ての存在の永遠と輪廻(個々の生命の輪廻転生の輪廻で無く、三千大千世界森羅万象全体の循環)を表現する【メビウスの輪】を世に表わしました。帯状の端から端を半転させて繋ぎ合わせると、帯状であった時に存在する、始まりと終わり、表と裏の差別、区別が一切無くなり、帯を二分割、三分割、四分割しても、繋がって離れることが無いのであります。
私は、この【メビウスの輪】が、無始無終永遠常住の一念三千の世界を示唆しているものと思います。
荒唐無稽、言った者勝ち、子ども騙しの神や仏の天地創造や全知全能、輪廻転生を主張し、信じ込んでいる教えは、勧善懲悪、善因善果、悪因悪果の道徳的誡めを教える効果を担っていますが、森羅万象一切衆生の生命全体に仏性が具わるという救いも助けも断絶した教え考え方で、報復の変形でしか無く、時代が進めば進む程、それらの教えの矛盾欺瞞の混迷が深くなり、覇権争いの正義を主張し合い何千年にも渡る憎しみの連鎖と増幅を遺産エネルギーにして、絶滅するまで殺し合う世の中が拡がって行くだけなのであります。犯罪は犯罪を犯した者だけの罪として断罪されますが、時代、環境、差別、いじめ、家庭の貧困、病気、育児放棄、家庭内暴力、子捨て、施設でのいじめ、男尊女卑等々の一人で抱えきれないものを抱え、非行に走り犯罪を重ねる、その人間が弱いからだ、その人間だけが罪を償っただけでは何も解決出来ていないのであります。家庭が、学校が、職場が、施設の矛盾が加って、そういう人間、そういう犯罪、そういう社会問題を作っているのであります。其れ等は個人として特定出来ませんから有耶無耶にされ、刑務所に入りません。その人を犯罪者をかばって、罪をチャラにすべきだと言っているのではありません。日本国内2023年小中学校不登校者346.000人、自殺者20.320人、殺人608人、いじめ(2024年)732.568人、社会全体が病んで、その人間だけで犯罪が生まれるのでなく、全部が繋がって、社会、家庭が犯罪者を産んでいるという連鎖を考え、森羅万象一切衆生全体で、善因善果、悪因悪果を考えて行かなければいけないはずであります。地球全体の温暖化、気候変動も、人間の二酸化炭素排出、プラスチック排出、循環エネルギーでない原発廃棄物蓄積、大気汚染、海洋汚染等々全部人間のエゴによって、自分で自分の首を絞める矛盾の中で起きている問題であります。自然は自然、人間は人間と別々に考える事は出来ない事に世界中が気付いているのもかかわらず、まだ自国の目先の利益を訴え国民を煽り、国民も目先の利益を求め、政治が子や孫の次世代を考えなければならない智慧の結集であるにもかかわらず、当面の選挙で与党に選出され権力者になり、未来の事は知らないという目先人間ばかりなのであります。宗教だけでなく、社会も現世利益のまぼろしに翻弄されているのであります。名ばかり共産主義の共産主義国家も専制君主政治も、軍事政権国家も、民主自由主義国家も、自己の自由を掴取するためには他の自由を奪ってもかまわないという、エゴそのものに変質し、自分が自由を求めるなら、他の自由も保障しなければならないという民主自由主義の基本を忘却し疲弊し、欲にまみれた俗物である事が露呈された末期的な時代になって来ました。人界の乱れは自然界の乱れ、自然界の乱れは人界の乱れという当然の事は、知識経験の少ない子供でも、容易に理解出来る時代になっているのであります。
ジョン・レノンの【イマジン】の歌詞に、「地の下には地獄は無いんだ、上には空(天国なんか無いんだ)しか無いんだ。宗教だって無いんだ。」が、事実なのであります。法華経で言うところの、成仏の象徴として言われる【霊鷲山】も、インドの【霊鷲山】へ実際に行っても、それは観光地であり、釈尊が法華経を説法した場面では有りませんし、その場所に立っても成仏は出来ません。成仏の【霊鷲山】は森羅万象どこにも無いのであります。【西方極楽十万億土】も森羅万象のどこにも無いのであります。個々の心の中に真実の法を根本とする信の世界の心象風景として心に浮かべるものでしかないのであります。
【守護国家論】聖壽38歳(全70p)
問うて云く法華経修行の者何の浄土を期す可きや、答えて云く法華経二十八品の肝心たる壽量品に云く「我常に此の娑婆世界に在り」亦云く「我常に此処に住し」亦云く「我が此土は安穏」文この文の如くんば本地久成の円仏はこの世界に在り此の土を捨てて何の土を願う可きや、故に法華経修行の者の所在の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや、故に神力品に云く「若は経巻所住の処は園中に於ても、若は林中に於ても若は樹下に於ても若は僧坊に於ても若は白衣舎にても若は殿堂に在つても若山谷曠野にても、乃至当に知るべし是の処は即ち是道場なり」涅槃経に云く「善男子是大涅槃微妙の経典流布せらるる処は当に知るべし其の地は即ち是金剛なり此の中の諸人も亦金剛の如し」上已法華経を信ずる行者は余処に求む可きに非ず此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり。(中略)爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり、法華経は亦方便壽量の二品なり壽量品に至つて実の浄土を定むる時此の土は即ち浄土と定め了んぬ。
日蓮大聖人が法華経の行者として生きはじめて七年目の初期の段階において、爾前の方便邪説を排し真実の法華経の成仏観を示されているのであります。
日蓮大聖人の教えも宗教ではないかと言われる方が当然いると思いますが、
【妙密上人御消息】(1239p)「日蓮は何れの宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず。」の御文で分かるように、日蓮大聖人は、宗教の一宗一派の幢を上げ独立したいが為に法門を説いたのでは無く、仏教経典の根本目的である一切衆生平等成仏の法を明さんが為に、法華経の行者として生き、熱原法難によって宗旨の建立を宣言したのであります。法華経の真髄一念三千の法は全ての生命に共通共有される永遠常住の道理なのであります。宗教は全ての生命、存在に共通する道理なのであります。荒唐無稽の理屈を長い歴史の中で無理矢理に押し込まれ飲み込まされ、洗脳され、天地創造の神、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩等々に、救って下さい、助けて下さい、守って下さい、御利益下さいと、すがり付き、その神、諸佛菩薩が如何なる法を悟り、その内証は何か、いかなる法(道理)をもって衆生を成仏へ導く事が出来るのかを説かない神、仏、知ろうともしない衆生では、宗教(法・道理)等と到底言えないのであります。
一歩も行く事無く、刹那の経過も無く、法華経の行者の生命そのものが仏であり、その場が霊鷲山、霊山浄土なのであります。あるがまま即座即身に成仏なのであります。
法華経は一切衆生平等成仏を説く【本懐経】と称されています。
刑部左衛門尉女房御返事(全1401p)
父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給うべし。教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給いて候。
と、あるように、釈迦如来自身が追善供養の大切さを説きながらも、法華経以前の法では成仏が出来ないので、法華経説法に入ってから、初めて両親の追善供養を法華経に依って行ったというのであります。
つまりその内容が、【無量義経】「四十余年未顕眞實」【方便品第二】「世尊法久後 要當説眞實」【方便品第二】「正直捨方便」【譬喩品第三】「不受与経一偈」と、法華経以前以外の釈尊自らが説いてきた法では、一人として成仏する事が出来ないと断言し、その上で、法華経の中で、それまで有り得なかった【二乗成仏】【悪人成仏】【女人成仏】【逆縁成仏】【小善成仏】(人天の小善を縁因仏性とし、小善で成仏する事。小善とは小さな善根の事。
法華文句巻六上大34-79「今の経には小善の成仏を明す、此れ縁因を取て仏種と為す」
この順序で、不成仏とされていた条件を全て解いて、【一切衆生平等成仏】の本懐を成就させるのであります。【小善】とは、阿含経に説かれる徳勝童子がまったく無意識に利害損得の計算なく、当然成仏が何かも知らず、その人が釈迦如来である事も知らず、この目の前にいる人に、泥饅頭が社会においては何の価値も意味も無い事も知らないけれども、自分にとって一番大切にしている宝物を差し上げたいと思い、差し出す、その真心によって、やがて成仏に繋がるという、釈迦如来に砂の餅を供養し大王に生まれたと、南無妙法蓮華経の法以前の爾前の経典の譬喩を、日蓮大聖人は御手紙の中に、あたかも南無妙法蓮華経の法華経の行者の信行に重ね合わせて書かれていますが、これは信心の根本は【純粋な真心】である事を示されているのであります。貧者の一灯、雪山童子の話も、爾前経の内容にもかかわらず、法華経の行者として生きる事の大切さと重ね合わせて御手紙に引用されているのであります。とどのつまり、ささやかな小さい善根真心こそが成仏に繋がる、ということは歴劫修行、灰身滅智の成仏觀の全否定という事なのであります。
天台宗比叡山における【千日回峰行】は平安時代の天台宗僧【相応(831-918)】が、【常不軽菩薩】の行を我が身に積みたいと願を立て始めた事が起源であります。【常不軽菩薩】は、二万億の同名、威音王如来の最後の二万億人目の威音王如来の時代に一人の菩薩の比丘が有り、それが【常不軽菩薩】であり、法滅を防ぎ、法を流布し次世代に伝えようと勤め、出合う人ごとに、
常不軽菩薩第二十(開結567p)
「我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと。」
この二十四文字の経を、人々に合掌礼拝をもって、唱えるのであります。すると人々は怒り、罵り、暴言を吐き、石を投げ、つばを吐き、棒で殴りかかって来るのであります。常不軽菩薩は走って逃げ、又遠くから、その人達に向かって、「我深く汝等を敬う。・・・・・・」と、貴方に仏性有りと拝み歩いたのであります。
現代の【千日回峰行】は、この姿とは全く違う内容であります。満行になれば、生き仏の様に称賛され、行者本人も、その気になり、その様に振舞い、御信者は行者に触れ、御陰があるように触れすがっています。行者は数珠を持った手で御信者さんをさすり、功徳を授けているように振る舞っています。世間の人々も【千日回峰行】を満行した僧侶だと尊敬し称賛し、ぬかずきます。そもそも【千日回峰行】がどういう信行内容の修行なのか知る事も無く、只々期間の長い、孤独で過酷な荒行を完遂した行者であるというだけで称賛尊敬をするのであります。【常不軽菩薩】の姿は、【千日回峰行】の中には皆無であります。【相応】から始まった修行が、天台宗の長い歴史の中で、【総合仏教】と自称される迄に信仰変質を経て【千日回峰行】も、全く変質し異質なものとなって現代に伝わっているにも関わらず、信行の中心対称である、法、本尊は重要視されず、荒行の部分だけが焦点されるという矛盾が一般社会に認識されなければいけないと思います。信仰が根本にあって、その信仰を深める為に修行が有るのであり、修行が有れば信仰があるのでは無いのであります。【千日回峰行】だけでなく、各宗各派に、座禅、滝行、火渡、お籠もり、断食、耐久修行等々が有り、満行を迎へれば、仏に成った様な尊敬を受けるという事が伝統的に行われています。しかし、これらは釈尊が破折し脱却したバラモン教の超能力目的の荒行と同類であって、仏教の至高の目的である法華経の一切衆生平等成仏とは真逆の法華経以前の教え、正法時代、像法時代の歴劫修行、自己満足、自己のみ救済、欲望達成目的の信仰は、信仰などでは無いのであります。
大石寺の貫主だけに日蓮大聖人の法の全てが血脈法水として具わっていると、生き仏の様に、ぬかずかれ合掌礼拝され、自他共に生き仏の様に振舞う事は、日蓮大聖人の【示同凡夫】【十界互具成仏】【名字即】の成仏観を否定逸脱した邪義謗法そのものなのであります。合わせて、戒壇本尊が本体の究極の本尊で、他の本尊は戒壇本尊の影であるという大石寺の主張も、一切衆生平等成仏の法である、日蓮大聖人が唱える御題目も我等衆生が唱える題目も平等の題目であるとの南無妙法蓮華経の法を本尊に移し顕わされた以上、全ての、真筆であろうが歴代直筆であろうが印刷であろうが、信をもって向き合う本尊は全て平等なのであります。平等でない本尊は本尊ではないのであります。日蓮大聖人、日興上人、日目上人の三祖の時代に身も影も無い、後世模刻の戒壇本尊と代々貫主の血脈法水の、一切衆生平等成仏を否定する差別主義と荒唐無稽な邪義謗法の矛盾を全否定する事が真の【祖道の恢復】なのであります。
【四条金吾殿御返事】(1194p)
我が身法華経の行者ならば霊山の教主、釈迦、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、本化の大士、迹化の大菩薩、梵、釈、竜神、十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん
【千日尼御前御返事】(1316p)
御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此の如し、我等は穢土に候えども心は霊山に住むべし
【妙一御返事】(1261p)
即身成仏は当位即妙不改本位
【下種】と言うと、仏が衆生の心田に成仏の種子を下す事と一般に理解されています。つまり、仏から仏種を下して貰って、初めて仏に成るスタートが切れるという考え方であります。【三益】と言って、下種益(種)→熟益(熟)→脱益(脱)の段階過程を踏まえなければ【脱益(成仏)】出来ないという構成になっているのであります。釈迦如来から下種された後に、長い歴劫修行をして成仏出来る。という事は、信じ行ずる者だけで、不信の者、謗法の者(熟益出来ない者)、人間以外の生命は成仏は出来無いという理屈になります。当然、法華経迹門の三千塵点劫(化城喩品第七311p)の下種も、本門の五百塵点劫(如来壽量品第十六496p)の下種も、釈迦如来からの下種が【本未有善】【本已有善】の区別によって、あくまでも仏が仏種を授け【下種】した時点から、信心修行の成仏への道程が始まり出すという構造になっているのであります。この構造は、釈迦如来在世では釈迦如来が直接下種行為をするという事が視覚的にも出来ますが、釈迦如来滅後においては、下種する当事者の釈迦如来自身がいないわけですから現実不可能であります。それでも正法時代一千年、像法時代一千年の滅後二千年迄、この【本已有善】が可能であるかのように解釈されてきたのであります。つまり、釈迦如来や諸仏諸菩薩に成仏させて貰うという感覚で、末法時代に入っても、正法時代、像法時代の構造で仏教が理解がされ、仏菩薩におすがりし、助けて貰う、救って貰う、守って貰う、功徳を貰う、という感覚でいるのであります。諸仏諸菩薩は、一切衆生平等成仏の眞實の法を、菩薩として信心修行していた時に妙法蓮華経を信心修行し悟り、仏に成ったのであります。初めから仏であったわけで無く、元々は全員凡夫だったのであります。そして仏に成った後に、一切衆生に自らの悟った一切衆生平等成仏の法を説き一切衆生平等成仏の道へ進むように導くのが諸仏諸菩薩のしなければならない働きなのであります。だから、八万四千の仏教経典の何処にも、キリスト教、神道等々の神が天地創造をしたとか、復活、ハルマゲドン(神とサタンの最終戦争)いうような、荒唐無稽、説明不能、道理無視、言った者勝ちの教えは無いのであります。つまり、仏教では、一切衆生平等成仏の法も、仏が創造したものでなく、元々本然として存在し全ての生命に仏の生命が平等に具わり貫かれている法に一切衆生の先鞭として悟って、未だ気付かず迷える衆生に、私もこの妙法蓮華経を悟る事によって仏に成ったのだと、説き導く立場が仏なのであります。ですから、諸仏諸菩薩が衆生を成仏させてくれるのでは無いのであります。仏が助けてくれる、救ってくれる、守ってくれる、功徳をくれるという事は無いのであります。一切衆生が一切衆生平等成仏の法に叶う心、生き方をするかしないか、だけなのであります。つまり元々【三千塵点劫】【五百塵点劫】の仏中心の下種は、方便の教えで、本来は、釈迦如来二千年後の末法時代の、妙法蓮華経の【法】中心が仏教本来の教えなのであります。仏の肉体は有始有終ですが、仏の内証の【法】は無始無終の永遠常住であります。【法】が無始無終、永遠常住なるが故に、その【法】を明らかにした仏を【常住此説法・不滅の滅】と言うのであります。釈迦如来の仏教を【脱益仏法】日蓮大聖人の法門を【下種仏法】と表現していますが、【法】は種として仏から下されるものではなく、森羅万象全ての生命に本然として元々具わっているものなのであります。その事に一切衆生が気付かないので、仏がその事を説き教える、その事を【下種】と表現している為に多くの人々が、釈迦如来の五百塵点劫、三千塵点劫、在世、正法時代、像法時代の釈迦如来本仏の時代と末法の法前仏後の日蓮本仏の仏法構造の基本的な混同混乱を抱いているのであります。五百塵点劫の長遠の過去には、釈迦如来は一介の凡夫菩薩である事を示し、三千塵点劫には大通智勝仏の16番目の子供だったと説きます。釈迦如来に一切縁の無い、末法の衆生を【本未有善】久遠に下種を受け歴劫修行によって善根を積んで来ている衆生を、法華文句巻10上「本と已に善有り、釈迦は小を以て而して之を将護したまふ」とあります。当然、この【本已有善】と【本未有善】は、釈迦如来を主人公にした仏教の展開図であります。釈迦如来を中心に考えれば、末法の【本未有善】の一切衆生は哀れな可愛そうな衆生だという事になります。しかし、よくよく考えれば、釈迦如来から仏種(仏性)を授けて頂く、授けて頂く前は、仏種(仏性)を持っていないという構図であります。これは十界互具の法を説いた時点で、この理論は破綻しているのであります。一般世間の釈迦如来を仏の総元締めと考え、釈迦如来像を金ピカにして本尊に崇め奉りすがっているわけですが、仏種は元々本然として十界互具の生命にそなわっているのであります。いかなる仏からも、授けて貰う物では無いのであります。末法だから【本未有善】では無く、【本未有善】が本来の当たり前の状態なのであります。ですから、日蓮大聖人の法を【下種仏法】と言いますが、日蓮大聖人から【下種】して貰うのでは無いのであります。日蓮大聖人は1222年2月16日~1282年10月13日61歳の生涯を送られたのであります。どれだけ【不滅の滅】と言っても、日蓮大聖人は、何処にもいないのであります。日蓮大聖人の【常住此説法】一切衆生平等成仏、全ての生命が本然として具している悉有仏性の南無妙法蓮華経の法に目覚める様に説き続けている【不滅の滅】なのであります。という事は、元々仏種が無い一切衆生一人一人に一粒ずつ仏種を下種するという釈迦如来の教えの構造と、末法の教えの構造は、根本的に違う、釈迦如来の教えの構造で、日蓮大聖人の末法の法を混同し解析する事は出来ないのであります。草木に、どうやって下種するのか、仏が一つずつ種を下して行くという構造ならば、草木成仏は不可能という事になります。
日蓮正宗の【授戒文】は、(教師必携47p)
「今身より仏身に至るまで爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や」「持ち奉るべし」御題目三唱
「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」「持ち奉るべし」御題目三唱
「今身より仏身に至るまで爾前迹門の不妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」「持ち奉るべし」御題目三唱
「持ち奉るべし」の語は導師、受戒者、僧俗介添人のすべてが発声するを可とする。導師にあっては命令の意、受戒者にあっては発誓の意に当たるからである。
この様にあって、日蓮大聖人に代わって、日蓮大聖人亡き後、日興、日目の流れを汲むという日蓮正宗の新説免許を受けた教師の僧侶が新生児や新入信者に仏性を下種する。御受戒を受ける迄、仏の種(仏種・仏性)が具わって無かったという法門の構造内容では勿論論無く、あくまでも受戒者に、現在から成仏に至るまで、謗法、嘘偽り無く、信心堅固に貫くよう誡めて、受戒者に日蓮大聖人の法によって、すべての生命に具わる南無妙法蓮華経の仏性に目覚めなさいとの自覚を促しているのであります。
常不軽菩薩の跡を継ぐ、日蓮大聖人は、一箇一箇種を下して行く【下種】では無く、「我深く汝等を敬う」で分かるように、すべての生命には、元来本然として妙法蓮華経の仏性が具わっていて、その仏性に目覚め、十界互具の成仏を遂げるには、南無妙法蓮華経の法を本尊として、信を根本第一の【名字即】しか無い事を説示されているのであります。
釈迦如来の十大弟子、①舎利弗は未来、華光如来。②摩訶迦葉は未来、光明如来。③阿難陀は未来、山海慧自在通王如来。④須菩提は未来、名相如来。⑤富楼那は未来、法明如来。⑥目連は未来多摩羅跋栴檀香如来。⑦迦旃延は未来、閻浮那提金光如来。⑧阿那律は未来、普明如来。⑨優波離は授記から外れる。⑩羅怙羅は未来、蹈七宝華如来等々、という様に、又、十大弟子ではない提婆達多は、釈迦如来を殺そうと実行した罪により生きながら地獄堕ちたけれども、釈迦如来の過去世修行中、阿私仙人として釈迦如来の善知識であった事と、生前釈迦如来の弟子として法華経の行者であった縁により、未来天王如来となる授記を受けているのであります。しかしこれらは、釈迦如来から授記を釈迦如来から成仏させて貰う様に、かつまた資格検定合格認証発表の様に、約束を得て行くのであります。これでは内容的に、一回死んでからなのか、10年先なのか100年先なのか1000年先なのか分かりません。只確実に言えることは、時間経過が入り【即身成仏】即座の成仏では無く、歴劫修行の姿である事であります。【即身成仏】とは、妙法蓮華経の仏性に目覚め、十界互具の生命のあるがまま、【不改本位】の成仏を一念に納める事なのであります。
【上野殿御前御返事】(全1580p)
一切経の功徳は先に善根を作して後に仏とは成ると説く。かかる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。譬へば天月の東の山の端に出づれば、其の時即ち水に影の浮かぶが如く、音とひびきとの同時なるが如し。故に経に云く(方便品第二)「若し法を聞くこと有らん者は、一として成仏せざること無し」(若有聞法者 無一不成仏)」云云。文の心は、この経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。
【有供養者福過十号】
法華文句記巻四下(薬王菩薩本事品第二十三を釈して)
供養する有らん者は福十号に過ぐ
仏滅後未来に於いては、個々の凡夫が法華経の行者として南無妙法蓮華経の信行をし、南無妙法蓮華経を折伏弘通しなければならない、仏が出来ない事をするという事は、【福十号に過ぐ】仏よりも優れるという、仏と衆生の上下主従差別の関係で無く、すべての生命が十界互具の平等の生命であるという、南無妙法蓮華経の法を中心とした関係を示されているのであります。御本尊に、この文が書き表わされているという事は、仏中心の信仰では無く、南無妙法蓮華経の法中心の信仰によって成仏出来る事を示されているのであります。今現在この時代、仏自身が南無妙法蓮華経の法を説く事が出来ない。今南無妙法蓮華経の法を説く事が出来る末法の衆生は、仏よりも優れるのであります。優れる法華経の行者として生きなければいけない事を示されているのであります。
【即身成仏】とは、十界互具の生命が、時間経過の無い、あるがままで妙法蓮華経の縁に触れ、南無妙法蓮華経の一念を能動的に心に抱く事によって即身成仏する事であります。勿論、自ら南無妙法蓮華経を信心修行する事は、強く縁することで、即身成仏する、尊く大切な生き方であります。三毒にまみれ十四誹謗の限りを尽くす生命は、南無妙法蓮華経の法に薄い受動的縁では、歴劫修行と違う意味で、即座の即身成仏は当然出来ないのであります。当然、信ずる事無くして即身成仏は有り得無いのであります。縁さえすれば、いつか成仏出来るならば、一所懸命信心修行にいそしむ必要も先祖故人の追善供養を心懸ける必要もないではないかと、安易な考えを持ち屁理屈を主張する人も多くいますが、刹那も置かない【即身成仏】を法華経の行者として目指す事が、今生人界に、南無妙法蓮華経を意識し濃い深い縁をもって信心修行する事の出来る身として産まれて来た生命としては当然の差異なのであります。縁は向こうからやって来ても、自ら掴まなければ、縁遠い【不聞三寶名】の衆生になってしまうのであります。世界中沢山有る宗教の中で、【謗法厳戒】を唯一の戒として掲げるのは、日蓮大聖人の法だけであります。それは生命にとって一番重要な、成仏、不成仏が掛かっているからであります。末法永遠の時代の一切衆生は、全部【逆縁の衆生】であります。しかし、この貧愼痴の三毒、14誹謗に、いつでも戻りまみえる危うい心を持っている逆縁の衆生が、自らの心に湧き起こる南無妙法蓮華経の仏性の心を感得し、その瞬間瞬間の信心の心を紡ぎながら、一切衆生平等成仏を願いながら、生涯その信仰心を生きる信念として貫いて行こうとする努力の瞬間瞬間一念一念が成仏なのであります。
真言宗の【菩提心論】によれば、【三種即身成仏】を説きます。①理具の即身成仏。一切の凡夫なり。②加持の即身成仏。三信已上乃至十廻向の行者也。③顕得の即身成仏。初地以上乃至佛位也。三種通じて即身成仏と云ふは猶台家の六位通じて即仏と云ふ。
【演奥鈔四十三】(大日経の解釈本)杲奥(1306~1362)には、
即身成仏四重有り。一、修生の即身成仏。二、本有の即身成仏。三、本修不二の即身成仏。四絶待の即身成仏。
と示しています。
しかし、【即身成仏】(あるがままの成仏)に、三通りとか四通りとかの各種階級識別がある事自体が即身成仏では無いのであります。【即身成仏】は一つでなければならないはずであります。大日如来は森羅万象一切衆生の真理を擬仏化した法身仏で、一切の仏菩薩を産み出した全知全能の根本仏であると、キリスト教の天地創造神と同根同等同義の教義を立てますが、一方的な主張するだけで理論的教義構築はありません。天台密教では、大日如来と釈迦如来は同一仏とし、法身が大日如来、応身が釈迦如来であると主張します。真言宗東寺密教では、大日如来と釈迦如来は別仏であり、双方が三身を供えているが、大日如来の三身が森羅万象一切衆生に遍く行き渡るので、大日如来こそが最高仏だと言うのであります。しかしこれとても、言った者勝ちで、理論的教義構築は皆無なのであります。
大日如来に成仏させて頂くという教え、釈迦如来に仏に成る種を下され、その種を自ら信心修行で熟させ、成仏させて頂くというという構造ならば、十界互具の生命の、あるがままの【即身成仏】では無いのであります。【即身成仏】は、仏に成仏させて貰うという事では無いのであります。末法時代は、【法前佛後】の、法が本然として元々あってこそ、後に人間が、その法に目覚め悟って仏になる。法(妙法蓮華経)は、元々仏性として、森羅万象全て生命に具わっていて、具わっているだけでは、自分に具わっていることの自覚意識が無い以上は、具わっていないと同じですから、南無妙法蓮華経の縁因に触れる事によって、仏性がうずき、かすかに意識し覚醒し、信心修行する者、謗法する者、無関心な者等々に分かれて行きます。【仏性】を持っていても、それに気がつかなければ、持っていないと同じになってしまうという関係性なのであります。だからこそ、末法万年尽未来際は、人間だけでなく、草木も、南無妙法蓮華経の【縁因】こそが、成仏の起因なのであります。現在生きている生命、未来の生命には南無妙法蓮華経の折伏弘通、亡くなってしまった過去の生命には、南無妙法蓮華経の追善供養が、一閻浮提の大海の全ての生命に対して溶け込んで行き渡って行く南無妙法蓮華経の縁因なのであります。【つゆを大海にあつらえ】の、【大海】とは、全ての生命が無始無終永遠常住で繋がっている、全ての生命が妙法蓮華経の仏性を具している、全ての生命が平等の妙法蓮華経の大海なのであります。この大海から一滴すくわれた生命は、五濁の中で、自分所有の生命、始まりと終わりの生死が生命の全てだと錯覚します。その事を破折し、法華経壽量品第16に【方便現涅槃】と明示されているのであります。つまり、復活も、輪廻転生も無いのであります。生きていた時の善業も悪業も、妙法蓮華経の信心修行の功徳善根も、臨終を迎え、大海の全てに溶け込み、他の生命に因縁を与え、次に掬われて行く生命の一滴の五大に関わって行くのであります。ですから、生れた時から、妙法蓮華経の濃い縁を持った生命と、薄い縁を持った生命と、不信無信、謗法、誹謗の生命が生まれながらの生命として存在するのであります。
全ての生命の五大が充満した無始無終永遠常住の大海の中から、人間、植物、虫、動物、光、水、石、土、大気等々の生命が、それぞれの五大の縁、調合によって、一滴ずつ掬われ、この世に生まれ、長命短命の生老病死の一生を送り、又、故郷である大海に帰り溶け込み、又過去の因縁によって組み合わせの違う五大に繋がり、それぞれの国土に生まれるのであります。ですから、AさんがAさんのまま、生れかわるという、輪廻転生を多くの人が思い描き、思い込み、そこに希望を持ちたいでしょうが、AさんがAさんとして生まれるという事は、時代も国も両親も兄弟も学校も同級生も同じで無ければ、Aさんというアイデンティティーにはならないのであります。時代という要素が変わるだけでAさんではなくなってしまうのであります。人格、人生は一度切りなのであります。又、信仰者としては、自分にとって大切な父母、兄弟、伴侶、子供、孫等々が亡くなり、その人達の成仏を願い、何回忌の法事や塔婆供養を行い御供養を捧げる。当然の如く、その故人の成仏の為だけに、この南無妙法蓮華経の功徳、御金の供養の功徳を使って貰いたい。他の見ず知らずの故人の為に功徳を分けて使って貰いたくないと考える人達がいます。それも気持ちとして分かります。他人に食べ物を施していたならば、自分の食べる分が無くなって生きていけないでは無いかという理屈であります。しかし、南無妙法蓮華経の功徳は、自分が成仏して貰いたい大切な人に向ける廻向供養の南無妙法蓮華経は、自分の大切な人を手がかり、つてとして故人先祖に関わる一切の生命に平等に功徳を施すのであります。減ってしまうとか薄くなってしまう等という事はなく平等なのであります。勤行の最後の観念文【乃至法界平等利益】は、今私が唱える南無妙法蓮華経の功徳が法界全ての生命に平等の利益を与えて下さい。という、南無妙法蓮華経の法の真髄を示しているのであります。
チベット仏教ゲルク派の法王ダライラマは、観音菩薩の輪廻転生の化身だという教義だと主張し、教団と中国政府で、論争していますが、双方共に荒唐無稽な自己洗脳、集団洗脳の教義なのであります。観音菩薩は法華経に出て来ます。という事は、観音菩薩は法華経の行者として、妙法蓮華経の信行をした菩薩だという事であります。観音菩薩が衆生を救うので無く、観音菩薩は妙法蓮華経の法で衆生を救うのであります
【聖書】に書かれる【復活】も輪廻転生と同じ幼稚な屁理屈教であります。こういう教えに幼い時から洗脳され、批判精神も無く、国教であったり、宗教に対して何の比較対象や批判精神も無く、教義を洗い浚い確認する事も出来ないし、すれば粛清の対称とされてしまうのであります。国教化された国情ならば、学校教育のカリキュラム自体が宗教教育で、男尊女卑、ヒジャブを被ることも、断食する事も、なんの疑問を持たず常識であり、自由と平等を主張しながら自由と平等の無い世界に何にも疑問を持つこと無く埋没し、異教徒を否定し、憎み、殺してもかまわない、異教徒は殺されることによって神に救われるのだという考えに至ります。疑問を持つ人間は、異端者、反逆者と言われ、同調圧力によって、その地域、国家に住むことが出来なくなってしまうか、信じていなくても、自分の心を自分で殺して生活していくために、世の中とは、生きるとはこういうものだと社会常識として自分で自分に言い聞かせて自己洗脳し同化同調して行くのであります。こういう歴史を何千年としていけば、遺伝子の様に当然化されていくのであります。聖書には、自由と平等と平和は説かれていません。しかし、信仰者は、自由と平等と平和を大声でデモ行進をして訴えています。有色人種は、人間の姿をしているが、人間では無いので、奴隷として使用しても良いという、キリスト教の御墨付きの基に人種差別が何ら罪の意識無く当然の如く行われれ、今もその思想を間違いと思わない人々が、世界中で罪を犯しているのであります。神を頂点にして、生命には差別があって当然という聖書の教えを基にして、神に平等を求める事自体が破綻しているのであります。白人主体で信仰されて来たキリスト教の為に差別されてきた黒人種、有色人種が、何故同じキリスト教に救いを求めるのか、求めても求めても、そこには求める、自由と平等と平和は無いにもかかわらず、何故人種差別を認めた同じキリスト教を信じるのか、キリスト教の教義の欠陥を何故検証しないか不思議でならないのであります。
人間は、10代遡ると、1,024人。20代遡ると、2百9万7千150人。30代遡ると、10億7374万1824人。40代遡ると、1兆0995億1162万7970人になります。日本の2025年現在の人口は、1億2000万人。世界人口は、82億3200万人であります。自分の先祖代々の1人でも欠けたら、現在の自分は、この世に存在していないという事なのであります。そして、この先祖代々の生命を支えて来た、動物、植物、水、大気、光、土、石等々の十界の生命の支えが無ければ、人間は瞬時も生きる事が出来ないのであります。原人から人間へと進化し、人間の歴史が始まる前の、人間が存在していなかった時代には、アメーバ、両生類、恐竜の時代以前の地球が火の玉として生まれる以前、宇宙も出来ていなかった時代、それよりも以前の永遠の過去からの生命があってこそ、その生命の連なりがあってこそ、今の私達の生命があるのであります。聖書や日本神話で言う様な、神がこの世界を作ったのでは無いのであります。もし、天地創造したというのであれば、作ったその前が有るはずですので、その前の世の中は、どうであったのかを道理立てて説明しなければいけません。無から有を生む等という因果を無視した教義で、一切の生命を道理立てて導き救う事など出来るはずが無いのであります。この2000年に及ぶ、聖書を中心にしてきた、不自由と不平等と復讐怨念殺戮の無い平和な歴史を、森羅万象一切衆生、全ての生命に平等に仏の生命が具わり、全ての生命に成仏する資格がある。その為には、その事が説かれる、南無妙法蓮華経の法を中心にした新たな歴史を作っていかなければいけないのであります。つまり、悉皆成仏、草木成仏、全ての生命の仏性が明らかに肯定された法(道理)でなければ、人間が真に解放される、自由と平等と平和安穏は絶対に来ないのであります。神と衆生に差別区別が有る教えでは、仏法でいう【即身成仏】は有り得ないのであります。【即身成仏】とは、仏も衆生も平等という世界なのであります。
人格を持った人間界だけに限定される、歴劫修行、灰身滅智では、一切衆生平等成仏の法に成り得る事無く、矛盾した破綻の理屈である事が良く分かるのであります。ですから、当然、広宣流布は人間界だけの事では無いにもかかわらず、人間界だけの覇権主義的世界広布等という限定したせせこましい考え方に固執し、【一天四海回帰妙法】という森羅万象の全ての生命、一切衆生無始無終永遠常住の大海という発想に展開する事が出来ず、取り敢えず、日本人の三分の一の信仰者で、国会で国民投票を実施させ、3分の2の賛成で、日蓮大聖人の法を国教化し、日本国立戒壇を建立してという、日本国教化の取り敢えず広宣流布と解釈するという現世だけの覇権主義的広宣流布観に凝り固まって拘泥しているのであります。取り敢えずの広宣流布など当然広宣流布では無いのであります。一切衆生平等成仏イコール一天四海回帰妙法の広宣流布は、そんな現世だけの矮小化された法門なのでは無いのであります。
これまで述べて来た様に、各宗各派は勿論のこと、日蓮正宗の僧俗信仰者の中に於いても、【授記】【輪廻転生】【歴劫修行】【現世の信心修行が成仏するには足りなかったら未来世に足りない分の信心修行の功徳を積んで成仏する】【灰身滅智】【霊鷲山往詣】【血脈相承の傘下に付いていれば成仏させて貰える】【日蓮大聖人が成仏させてくれる】等々の成仏觀を、其の時其の時で選択して、納得させていくという思考方法なのであります。此れ等は人情に訴える物語性としては分かり易く心にしみて心情的に受け入れ易く、心を一時安らかに慰めてくれるかもしれません。しかし、これらは全て、その場しのぎの爾前迹門の方便の教えであり、理論的に永遠常住の生命観からの説明不能となっているのであります。
仏教経典の全てが、一切衆生平等成仏を目的に説かれ、その事を末法時代に託した法華経の教えを通して、【仏前法後(仏が前にあって仏が法を説いたのだから法は後)】の爾前の教えを踏まえて、日蓮大聖人は、仏から成仏させて貰うので無く、南無妙法蓮華経の法を信じる【法前仏後(法が前にあって、菩薩修行者として妙法蓮華経の法を悟ったので仏に成れた)】の真の十界互具一切衆生平等即身成仏の法を、法華経身読、末法の法華経の行者として仏の自覚を抱き示され、南無妙法蓮華経の本尊を顕わされたのであります。
【人法一箇】も、法華経の行者として南無妙法蓮華経を悟った人が、【法人一箇】として成仏を遂げるという状態を表現しています。
【久遠元初本因妙の本仏】も、釈尊の久遠を表わす【五百塵点劫】より古い昔だから、迹仏釈尊よりも偉く尊い本仏の原始であるとの解釈を常識と考えている人々が沢山います。そんな、昔であればあるほど正しく尊いという考えは、全ての生命の無始無終永遠常住の南無妙法蓮華経を説きながら完全な自己矛盾に陥っているのであります。【久遠元初本因妙本仏】の【久遠元初】とは、全ての生命の本質という事であり、どっちが古いかの時間経過概念の勝劣ではない無始無終の世界なのであります。【本因妙】も同意であります。【本仏】も【五百塵点劫】より古いから【本仏】ではなく、全ての生命の本質の【本因妙】の法を、末法の一切衆生に説き示し折伏し伝えたからこそ【本仏】なのであります。【迹仏釈尊】は、それを末法の衆生にする事が出來なかったから迹仏なのであります。
本尊は信じて向かい合う衆生に対して、
◎あなたの生命の真ん中に南無妙法蓮華経の仏の生命が具わっていますよ。
◎南無妙法蓮華経を森羅万象の中心にして、全ての仏菩薩が集まる、これが霊山浄土、成仏の姿ですよ。
◎宝塔の中に、多宝如来、釈迦如来、二仏並座し、一切衆生平等成仏の南無妙法蓮華経の法を常に説いていますよ。
◎本尊首題 南無妙法蓮華経 日蓮花押 として、法華経の行者として生きる、そのままの心振舞が成仏ですよ。
という事を一切衆生に示しているのであります。
つまり、【広宣流布】イコール【一切衆生平等即身成仏】
現世だけでなく、永遠常住の生命の成仏を具現化されているのであります。
私達の生命生活の中で、即身成仏を遂げるという事は、どういう事かと一般的な5W1Hで表現すれば、
〇When【いつ】今(即)
〇Where【どこで】ここで(一歩も往かず)
〇Who【だれが】南無妙法蓮華経を信じる生命が
〇What【何を】仏教の究極目的である一切衆生平等成仏を
〇Why【なぜ】南無妙法蓮華経は一切衆生平等成仏を説く唯一無二の法だから
〇How【どのように】即身成仏(生きて仏・死して仏・永遠常住の仏)
と、今(過去・現在・未来、三世一箇)成る事なのであります。故に日蓮大聖人の法は、法華経の行者として、南無妙法蓮華経の法に対する、今の【信】【縁】が一番即身成仏の柱となる最重要、必要不可欠、要素なのであります。
2025年10月15日