日蓮大聖人の法の基本

 日蓮大聖人は「松野殿御返事」(1381p)に、
聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱え申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の然せる火も、智者の然せる火も、其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり、
この様に示され、御題目の功徳の平等を示されています。御題目は、本因妙・一念三千の眼に見えないけれども森羅万象全ての生命に平等に貫かれている法であり、この法を私達一切衆生に平等に伝える慈悲として強いて顕された、言葉と文字であります。
「本尊問答抄」(365p)
問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし
 つまり、題目を法の象徴として表現して、一切衆生に伝え、縁せしめる為に題目として顕わされているのであります。法が平等であるからこそ、「松野殿御返事」に示される様に、題目も、日蓮が唱える題目も、私達が唱える題目も、平等と言われるのであります。という事は、題目を中央首題に顕した、南無妙法蓮華経 日蓮の、どの本尊も一切衆生に対して平等という事であります。そして、本尊の前に座して、成仏を求め修行する場所(戒壇)も、大石寺の御宝前も、末寺の御宝前も、御信者さんの自宅の御宝前も、法華経に示される様に山谷曠野、どこであっても、信心の志を立てる所は平等なのであります。本門の題目、本尊、戒壇の三大秘法は全てが差別区別階級無く平等で無ければ法として矛盾するという事になります。法を顕わした題目が平等なのに、大石寺では、本尊は、戒壇本尊が一番で、末寺の本尊は二番で、信徒宅の本尊は三番で、一番が体で、それ以外の二番三番は影の本尊だとランクがあると主張していますが、そういう事ならば、二番三番の影の本尊に向かい信心修行し、成仏を願っても、一番の戒壇本尊を拝むより、劣る信心であり、影の信心であり、成仏も二番三番の階級があるという事になってしまうのであります。煩悩即菩提、即身成仏、一切衆生平等成仏を説き乍ら、そこにランクが有る事を当然の様に説く事は、本因妙・一念三千の妙法に対して大きな矛盾と背信の謗法であります。
 戒壇も、戒壇本尊の前だけが戒壇では無く、全ての本尊に信心の志を持って向かう山谷曠野は全て戒壇であります。
 日蓮大聖人の法は、日興上人が、身延離山の際に「原殿御返事」に示された、
 いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候はん事こそ詮にて候へ
との、何処であっても、謗法厳戒の信行学折伏の志を立て、成仏を願う事こそ詮であると示される様に、大石寺という聖地信仰では無いのであります。
 戒壇本尊の前しか、御授戒を受ける事が出来ないのでなく、どの御本尊、どの歴代の御本尊(貫主席を簒奪する様な者、貫主個人の権勢、権威を誇示する為に書写した本尊は日蓮大聖人の法から外れるだけでなく、世上を治める法律をも破る事ですから除くのが当然であります)でも、本因妙・一念三千の法を顕わす本尊として、勝劣階級は無く、平等なのであります。事実、戒壇本尊と言いながら、戒壇本尊の前で御授戒はしないのであります。
 日蓮大聖人が顕した本尊には「戒壇本尊」「萬年救護本尊」「女人成仏御本尊」「傳法御本尊」「病即消滅之曼荼羅」「一念三千御本尊」「今此三界御本尊」「玄旨伝法御本尊」等々の讃文や通称が有りますが、讃文、通称によって本尊の価値が特定、限定、突出するものではなく、全ての本尊が、戒壇であり、萬年救護であり、女人成仏であり、傳法であり、病即消滅であり、一念三千の法を顕しているのであります。この本尊だけが、この特質を持つという事はないのであります。
 本因妙・一念三千の法は、一切衆生に平等の法であります。譬えて言えば、太陽や空気や水の様などんな生命にも平等の存在であります。これらの存在によって私達の生命は存在していますが、これらの用い方を間違えれば、これ等の存在は私達の生命を奪う存在になります。信じるか(正しく用いるか)、信じないか(間違って用いるか)によって、まったく異なった結果を得る事になるのであります。
 題目(一切衆生平等成仏の法)⇒本尊⇒戒壇(上求菩提下化衆生の信心修行の場として、自他共に仏性が具わる事を自覚する)の、順序で三大秘法は成立しています。つまり、法を南無妙法蓮華経と発音する言葉の題目、南無妙法蓮華経と書く文字の題目の一点に集約して顕わし、その題目を文字の本尊に顕したのであります。文字の本尊を顕した事も前代未聞、未曾有ですが、それ以上に本因妙・一念三千の法を本尊として顕した事が真の未曾有な事なのであります。一切衆生平等成仏の法である、本因妙・一念三千の法である南無妙法蓮華経の法、題目は、一切衆生に平等ですから、当然、本尊も戒壇も平等であり、三大秘法、全ては平等であります。「但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり」不平等が生じるのは、衆生の信、不信の心が原因であり、妙法は、どこまでも、どこまでも絶対に平等なのであります。大石寺の様に、戒壇本尊こそが法だという事は、順番が真逆で、仏法として成り立たないのであります。
 大石寺は、血脈相承の歴史がメチャクチャであっても、捏造し、正統性、法水瀉瓶の清浄性を主張し、時が経過すれば、当事者、証言者はいなくなり、誰もが大石寺という存在に、寄らば大樹の影、長い物に巻かれろと、保守収斂され何事もなかったかのように、大石寺が正当であり、清浄である、謗法厳戒の宗であるという綺麗事に戻って行くはずだとたかをくくり、御信者さんには事実を隠し知らせず、事実を伝える歴史資料には知らぬ振りをし、自己洗脳、信者洗脳をし、不相伝の輩の遠吠えだ、相手にするのも汚らわしい謗法の輩だと、繰り返して来たのが大石寺の歴史なのであります。不相伝の輩と声高に、大石寺自体が主張する、一器の水が一器に、減りもせず、濁りも、謗法も無く、清浄に相伝されてきたと、代々の貫主に簒奪する阿部さんの様な輩、釈迦立像を本尊とする日精上人の様な輩が現れても、貫主は仏だと言い続けなければならないのであります。阿部さんが貫主を簒奪したばかりの時、大奥の対面所で、在勤教師会として面談した際、日精上人の事を尋ねると、「お前達には分からない、日精上人には甚深の思いが有るのだ。」と、その時代に生きて見て来た証言者の様な事を言っていました。日精上人を否定する事は、自分が否定される事ですから、自分も仏の振りをしていかなければいけないのであります。一切衆生平等成仏の法である、日蓮大聖人の法を信仰しているつもりでいるにもかかわらず、貫主だけが生き仏で、貫主だけに血脈があり、僧侶、信徒は、その事を認め信じる事によって血脈が流れ、成仏出来る。これでは、一切衆生平等成仏の法では無く、組織と権威を守る為だけのシステムなのであります。
 この事は、要法寺の釈尊本佛の法門に汚された百年に及ぶ忌まわしい時代を是正したとされる二十六世日寛上人であっても、一器の水が一器に渡っていない事を目の当りにしていても、あからさまに謗法と否定出来ないのであります。日蓮大聖人の法よりも、組織を守ろうとする、現実の愚かさなのであります。この事実を考えると、戒壇絶体と血脈絶体を必須要項としてやって来た事が良く分かるのであります。大石寺の広宣流布は、日蓮大聖人の、一切衆生平等成仏の法、十界互具、一念三千の法を広宣流布するので無く、戒壇絶体、血脈絶体こそが日蓮大聖人の法であるとすり替え強言し、これを広宣流布する事にすり替わってしまっているのであります。
 血脈の源泉は、日蓮大聖人、日興上人、日目上人の三祖に有るのであります。代々の貫主が、濁り曲がれば、源泉に戻り、汲み取って、訂正するのが血脈であり、法水であり、信心であります。
 国立戒壇を言うか言わないかと、顕正会と長年小競り合いをしていても、大石寺は国立戒壇と言わないだけで、国立戒壇と同じで、世界中の人が、御授戒を受け、戒壇本尊に参詣し、時の貫主を時の日蓮大聖人と信じ、絶体と仰ぐことが、広宣流布、世界平和であると考えているのでありますから、国立戒壇を世界戒壇と考えているだけで、顕正会とは、同根同種の団体なのでありますから、いがみ合う必要は無いのであります。。
 代々の貫主を日蓮大聖人と拝するという、大石寺が日蓮大聖人の法門の様に主張している貫主生き仏の考え方は、当然、日蓮大聖人、日興上人、日目上人の、凡夫僧が法華経の行者として生きる姿が仏であるという法門から外れる謗法であります。そして、この考え方が何故仏法上狂っているかと言えば、過去の時代の貫主がどれだけ間違っていても破折、否定、修正が出来ない為、苦し紛れの言い訳、誤魔化しを積み重ね、それでも仏だと言い続けていかなければならない為、その結果、日蓮大聖人、日興上人、日目上人と、まったく違う、仏法を守る為でなく、組織、権威、利権を守る為の団体行動になってしまうのであります。まさしく、近代、現代の大石寺の体質そのものなのであります。
 私達は、大石寺の、この日蓮大聖人の法を曲げる不正のからくりと、現世利益と組織拡大の手段為に日蓮大聖人の法を悪利用して来た創価学会の本質に気付き目覚めたわけですから、二度と、この道理外れの、広宣流布しても意味の無い、組織の繁栄と空虚な権威だけを目的にした、創価学会や大石寺の洗脳の悪夢に先祖返りしない、本当の日蓮大聖人の法を信心をして頂きたいと思います。そういう意味でも、任意団体正信会の人々が、大石寺や顕正会の様に、戒壇絶体に先祖返りしたことは、本当に残念な事だと思います。
 大石寺は、絶体に、戒壇絶体、血脈絶体の考え方を、批判され破折されればされる程、しがみついて、裸の王様と嗤われても改める事は無いでしょう。何故なら、これを否定すれば、今迄主張して来た事と、自分達を自己否定する事になるからであります。しかし、私達は、
この事を、縁する人々に、空虚な権威では成仏出来ない。妙法の道理に叶った信心、依法不依人の信心でなければ成仏は出来ないと、一言でも伝えて行くのが、私達にしか出来ない信心修行折伏であり、これこそが成仏の道であります。