日蓮正宗における引導文とは何なのか

 引導文とは、「広辞苑」によれば、〔仏〕迷っている衆生を導いて仏道に入らせること。また、死者を済度するため、葬儀のとき導師が棺前に立ち転迷開悟の法語を説くこと。と、あります。つまり、故人の葬儀に際して、霊山浄土へ引き導く為に読み上げる文章の事を言います。この事は宗教全般に共通した、半ば常識、通り相場と言えるような存在と認識されていると思うのであります。ドラマの台詞などにも「引導を渡してやれ」等と、最後の決意を宣告してあきらめさせる。誤解した表現にまで使われている始末であります。しかし、この引導文は、それぞれの宗教によって、成仏の境涯、神仏の救いが何かが違うのでありますから、その内容、表現は、全て違うものであり、その文章がその宗教の宗旨とする内容を凝縮したものとなるのは、必然であります。つまり、その宗派の引導文はその宗派の教義を要約し、信仰の価値観、目的観を、文章の長さ、時間の制約があり、全てと言えないものの、要点をコンパクトにまとめたものなのであります。引導文を見ればその宗教が分かる、それが引導文という存在なのであります。
 引導文の始まりは、「織田仏教大辞典」によれば、禅宗の唐の洪州黄檗山の希運禅師が母の溺死したるに際して下炬(禅宗の葬儀の際、導師が遺骸に点火する事、あこと読む)の時、法語を言う。死後引導の始めとする。禅宗の引導を見て他宗も他宗の意を以て引導すると見えたり。
 と、あって。一般的には禅宗が引導文を発明して始めたように考えられていますが、 法華経の、
 方便品第二(開結154p)「無数方便 引導衆生」(無数の方便をもって衆生を引導して)
 法師品第十(開結397p)「引導諸衆生 集之令聴法」(諸々の衆生を引導して之を集めて法を聴かしめ)
 と、あります。調べれば、法華経以外の経文にも引導の語句を見出す事が出来る事と思います。法華経の経文に引導の語句が有るという事は、特段、希運を事の始まりとする必要は無く、一切の経典全てが死者に限定したものでなく、生死を超えた成仏への引導なのであります。
 福沢諭吉が【演説】との表現をした初めての人との通説があるが、これも間違って世の中に定着した常識であります。経典に【演説】なる言葉は無数に散見することが出来るからであります。間違ったことが常識となり、一人歩きしだすと、アメリカ大陸に原住民が住んでいるにも関わらず、コロンブスのアメリカ大陸発見と言った陳腐な説が出来上がってしまうのと同様であります。
 それでは、日蓮正宗の引導文とは、どうなっているのかを考えてみたい。
 日蓮正宗教師必携に掲載される引導文は以下の通りであります。

引導文
「南無十界本有常住未来永劫即身成仏の大曼荼羅、末法有縁の大導師南無宗祖日蓮大聖人、南無二祖日興上人、日目上人已来御歴代正師等大慈大悲の御利益を以て新寂○○○○信士(女)をして即身成仏の本懐を成就せしめ給へ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども三世諸仏の御師一切女人の成仏の印文なり、冥途にてはともしびとなり死出の山にては良馬となり、天には日月の如し地にはし須彌山の如し、生死海の船なり、成仏得道の導師なり。(妙法曼荼羅供養事1305p)
此の妙法の曼荼羅を持ち奉れば因身の肉団に果満の仏眼を備へ有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば三途に恐れなく八難に憚りなし七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払ひ無垢地の園に花開け法性の空に月朗かならん。(持妙法華問答抄465p)是人於仏道決定無有疑(神力品)の文憑あり、唯我一人能為救護(譬喩品)の説疑ひなし、精霊相構へ、決定菩提の信心に住し即身成仏の本懐を得給うべし」

 この引導文は
 方便品壽量品自我偈各一巻読誦の後題目、観念を行う。観念は下種三宝の御報恩終り、次いで引導、回向(各三唱)次に「乃至法界平等利益・・・・・・」三ツ鈴題目三唱を以て終わる。
○引導は声を出すべきではないが微声で唱えてもよい。その根本精神は、大御本尊に対し奉り一心に死者の誘引化導を願い、以て即身成仏を祈念する処にある。
と注記されている。
 つまり、あくまでも引導文は観念文である。声に出さないことが本来であるというのであります。
これは事実で、僧侶の葬儀には引導文を音読することは全くされないで守られています。しかし、現実はどうかといえば、一般世間の葬儀告別式の形態に同調し、引導文を朗々と読み上げています。本音と建て前の使い分けの上に存在している状態なのであります。
 自分の体験を例に引きますが。私が初めて末寺に在勤したのは当時、阿部信雄師が住職をしていた、京都市右京区梅津の平安寺でした。何も出来ない、分からない自分に、手取り足取り、住職、妙修さん、先輩の方々が教えてくれましたが、法務の指導の中で、引導文を声に出さず、観念しなさい等と教えられたことはありませんでした。引導文を最後に読むのでなく、自我偈の前の「爾説偈言」で切って、重々しく大きい声で読むように教えられた。教えられたように実行しながらも、教師必携に書いてあることとあまりにも違いすぎると感じ、一回だけ、教師必携通りにやって、最後の御題目三唱の後、「出棺の用意に移って下さい。」 と言うと。慌てて葬儀屋さんが走って来て、「引導文がまだじゃないですか。」と小さい声ながらドスのきいた声で叱責された。これでは駄目なんだ、世間一般に通じないんだと自覚せざるを得ませんでした。
 又、大学時代に法道院へ在勤した折りに、ある都内の寺院所属の信徒が過去に法道院にも所属していたいきさつがあり、その葬儀に参列させて頂いたことがあります。その御寺の住職は宗門の要職にある方であった為、どのような振る舞いをされるのかなあっと思っていましたら、やはり「爾説偈言」で切って、やおら巻物にしたためた引導文を開いて、香炉からたなびく煙の上にかざして、おもむろに三、四回廻してから、かざして引導文を読み始めたのであります。法門上何の意味もないしぐさで、さも重々しく見せようとする演技と演出には魂消てしまいました。私は、重ね重ね、こりゃあ観念じゃあ無いと確信しました。
 しかし、こんな事は笑ってしまうような小さな事であります。それよりも私は日蓮正宗が何十年にもわたって用いてきた引導文の内容に疑問を持つのであります。先に申し上げたように、引導文は日蓮正宗の成仏観を要約したものであり、引導文を見聞すれば、日蓮正宗の教えがどういうものかが分かるものでなければならないのであります。観念であろうが音読であろうが、そんなことに内容が左右されるものではないはずであります。教師必携に示されている引導文を熟読してみて、本当にこれが、久遠元初本因妙の日蓮大聖人の法を示している内容と言えるでしょうか。
 私は、引導文を他宗と同じように葬儀の中で観念でなく読み上げることは大切なことだと思います。亡くなった方にも遺された親族の方々にも信仰の根幹を改めて言い聞かせる。そして列席の有縁無縁の方々にも故人が生涯にわたって貫いた日蓮大聖人の教えがどういう内容なのかを示し、同時に下種結縁する意味でも、重要な折伏の為のミニ説法というべき場面として捉えるべきであると思うのであります。大半の会葬者が日蓮正宗が何かも知らない、信仰をしていない人々であり、その中での葬儀告別式である。この時に、妙法の縁に触れて貰いたいと考えるならば、漢文体のすごい事を言っているようだが何を言っているのか意味不明という文章でなく。中学生位の知識と文章力が有れば、概略理解出来る話し言葉で全体を表現しなければいけない必要があります。
 何故現在までの日蓮正宗教師必携の引導文は、久遠元初本因妙の日蓮大聖人の法を示していないと言えるのかを列挙します。
① まったく釈尊並びに他宗信仰との立て分けが示されていない。
②日蓮大聖人の説かれる法でなければ末法一切衆生は成仏出来ないことを示していない。
③引用されている「妙法曼荼羅供養事1305p」「持妙法華問答抄465p」の御書は的確に日蓮大聖人の十界互具一念三千・本有不改の成仏観を示したものでなく、生死の際に世間 一般や他宗に歩調を合わせた誘引の内容で引導と言えるのか。
④本来は観念と言いながら御書の御文を入れ、明らかに読み聞かせることを意識している。
⑤本仏日蓮大聖人を表明していない。
⑥教師必携には「根本精神は、大御本尊に対し奉り一心に死者の誘引化導を願い、以て即身 成仏を祈念する処にある。」と、あるが日蓮大聖人の成仏観が示されていない為、下種にもならない。
⑦故人が日蓮大聖人の法を生涯貫いたことの意義。遺族が、この信仰を貫いて行く事の大切さを伝えていない。
 旧来の引導文には、これだけの日蓮大聖人の法を表現する気のない欠落があるのであります。
 黙読の観念にしても、音読にしても、それは二の次三の次の事であります。
 以下に挙げる引導文は、私の試案であります。

引導文

 南無本地難思境智冥合、事の一念三千、人法一箇、独一本門の大御本尊、南無本因妙の教主、主師親三徳、宗祖日蓮大聖人、南無法水瀉瓶、本門弘通の大導師、第二祖日興上人、南無一閻浮提の御座主、第三祖日目上人等、日道、日行、歴代の御正 師、大慈大悲の御利益を垂れ給いて、今、この御宝前に於いて、日蓮・日興の弟子の名として俗名○○○○改め○○○○の戒名を当て給いて、三世十方の全ての仏が集いし霊山へ引導を請い奉る。
 およそ釈尊十九歳にて出家せし理由は、人として此の世に生まれ、逃れる事の出来ぬ、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病となる苦しみ、そして必ず死を迎える苦しみに対する悩みなり。修行の末、いかなる権力、財力を誇る者も、この生老病死より逃れる者は無く、人生は、生老病死と悟り。苦しみ悲しみに迷う事無く、一切法華経に其の身を任せ、あるがまま、仏と同じ様に、試練、修行と受け止め。永遠常住の生命の成仏の法を得る事が此の世に産まれてきた一番の目的であり、その法こそ南無妙法蓮華経の法なりと悟り、衆生に説き給う也。
 釈尊八十年の生涯に五十年間、八萬四千の法を説く。低い法から順々に高い法へと移り四十余年の後、法華経に至り、釈尊自身の出現の理由を「一大事因縁」として、この南無妙法蓮華経の法華経を説き、「開示悟入」として、一切衆生に仏と同じ仏性が具わる事を伝える責任と使命を、何にも先んじて果たす為に、我、此の世に産まれ来たると示す。
 故に、今迄、四十余年説きし、我が説法には未だ、まことの成仏の法を示さずと断言し、この南無妙法蓮華経こそが一切衆生成仏、過去、現在、未来に渡り、最高唯一の教えである。法華経以外の教えを捨てよと示し給う。
 釈尊、自ら、私が亡くなりし後二千五百年が過ぎ、末法という時代を迎えたならば、私の説きし経文の文字は御経として残りても、修行とその功徳にはまったく成仏する力無しと示す。
 日蓮、その末法の始め、鎌倉時代に生まれ、釈尊の一切の経文を学び、法華経こそ最高唯一、一切衆生成仏の法なることを、法華経に説かれし予言の通りに悟り、法華経の教えを身を持って読み、天下に「立正安国論」を示し、大難四ヶ度小難数知れず。釈尊の経文に添い奉り、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と、法華経以外の成仏出来ぬ教えを破折し、上行菩薩の再誕日蓮と示し、自らが、末法に廣宣流布すべき南無妙法蓮華経の結要付属を受けた事を宣言す。
 法華経の文底、本因妙の法、南無妙法蓮華経と人法一箇せし自らを合わせて、日蓮が魂を墨に染め流し、南無妙法蓮華経日蓮在御判と末法の御本仏として、釈迦在世より末法に至まで、未曾有の大曼荼羅本尊を建立し給う。又、常不軽菩薩の跡を継ぐ者、法華経の行者の生き方を示す。過去、現在、未来の一切の仏はこの南無妙法蓮華経に縁し、信じ、修行し、悟り仏に成り給う故に、この御本尊は一切衆生成仏のしるし也。
 今○○○○は※深き縁あって、この法華経を信じ、この御本尊を拝し、この信仰を貫き生涯を送る。(※子供・未入信者の場合はふさわしくないので、「南無妙法蓮華経の題目に縁したり。」とする)仏は人と生まれし事は一切の仏と同様に、この南無妙法蓮華経に縁し、信じ、修行し、仏と同じ仏性を自覚し、森羅万象、全ての生命が、南無妙法蓮華経の仏となる為に此の世に産まれたりと示す。人生の目的、信仰は決して己の希望や欲望を叶える為や名聞名利、現世利益ではないと示し給う。
 法華経「神力品第二十一」に曰く
 仏の亡くなった後、法華経を信じ、心に持つべし、この事を守れる者は必ず仏となる、この事に疑いを持ってはならぬ。
 と、釈尊や阿弥陀如来、大日如来、観音、地蔵を本尊として拝むのではなく、釈尊はじめ、全ての仏が悟り、得た南無妙法蓮華経の法を衆生も持てと釈尊自ら示し給う。
 正直に方便を捨てて但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る人は煩悩業苦の三道を法身般若解脱の三徳と転じ三観三諦即一心に顕れ其の人所住の処は常寂光土也、釈迦多宝十方の諸佛も霊山会上の御契約なれば遺されたる者、共々に日蓮房日蓮房と一心に南無妙法蓮華経の題目を叫けばば、日蓮すぐに飛び来たりて手を取り肩に掛けて慥かに寂光の宝刹へ送り玉う也。
 「師弟共に霊山浄土に詣り、過去・現在・未来の一切の仏とまみえん」
 「同じ妙法蓮華経の種を心に孕ませ給いなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給うべし」
 世間の宗教が説く。迷いや、邪悪な心を、退治し、我慢して、仏になるのではなく、消す事の出来ない、地獄・餓鬼・畜生・修羅の迷いの生命を抱えたまま、南無妙法蓮華経の題目を信じ、唱え、成仏する法こそが、真実、一切衆生成仏の法也。故に、
 凡夫改めずして法華経の行者として仏なり
 願くば眼前の精霊○○○○南無妙法蓮華経の功徳に縁し速やかに日蓮日興の弟子となり必ず仏身の本懐を遂げ給う可し。
 「毎に自ら是の念を作く何を以てか衆生をして無上道に入り速やかに仏身を成就する事を得せ令めんと」
 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

 ゆっくり読んで10分程ですが、時間の制約の中で、日蓮大聖人の法の概略をなぞり、文語体を出来るだけ廃して、口語体を用い、日蓮大聖人の法とはどういう内容なのかが伝わるように、この点は盛り込まないわけにはいかないだろうというものを入れ、推敲したつもりであります。勿論完璧なものではありませんが、議論のひな形に用いて頂ければ幸いであります。
 引導文が葬儀の中で、ただの舞台演出として、何を言っているのか分からないけど浪花節みたいで良い声だったねで終わってしまうのでなく、今の坊さんはこういう事を言ってたね、今迄考えていた仏教の考え方とは違うんだね。ということが、仏縁として伝わらなければ、引導文に何の意味があるのかと思うのであります。無論、引導文が有ろうが無かろうが、久遠元初本因妙の題目のもとに故人の即身成仏、参列者への仏縁には何の遜色があろうはずがありません。しかし、引導文があり、読む以上は、活かしきって、もう一歩深く、広く、分かり易く、伝える努力が必要ではないかと思うのであります。
 僧俗共に、深く一考と議論を願うものであります。



改訂 引導文   令和2年9月
 勤行要品の観念文の改訂に添って、矛盾する点を改訂しました。

 一閻浮提総与、全ての本尊の要旨。一切衆生平等成仏の妙法【法】
 末法の御本仏日蓮大聖人【佛】
 第二祖日興上人【僧】
 第三祖日目上人等、日道、日行、歴代の上人御報恩謝徳、大慈大悲の妙益を垂れ給いて、今、この御宝前に於いて、日蓮・日興の弟子、法華経に縁する信仰者の名として俗名○○○○改め○○○○の戒名を当て給いて、三世十方、全ての仏が集いし霊鷲山へ引導を請い奉る。
 およそ釈尊十九歳にて出家せしわけは、人として此の世に生まれ、逃れる事の出来ぬ、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病となる苦しみ、そして必ず死を迎える苦しみから、逃れる道を知りたいとの悩みなり。修行の末、いかなる権力、財力を誇る者も、人生は、その苦しみ、悲しみに迷う事無く、一切南無妙法蓮華経の法に其の身を任せ、あるがまま、仏と同じ様に、人生の修行試練と受け入れ。永遠常住の生命に目覚め成仏する事が此の世に産まれてきた一番の目的であり、その為の法こそ南無妙法蓮華経の法なりと悟り、南無妙法蓮華経の法を衆生に説き示し給う也。
 釈尊は八十年の生涯の中で五十年間、八萬四千の法を説く。浅い法から順々に深い法を説き、四十余年の後、法華経に至り、釈尊自身この世にあらわれた理由を「一大事因縁」として、この南無妙法蓮華経の法華経を説き、「開示悟入」として、一切衆生に仏と同じ仏性が具わる事を伝える責任と使命を、果たす為に、我、此の世に産まれ来たると示す。故に、
 今迄、四十余年説きし、これまでの教えには、一切衆生平等成仏の法を説いていないと宣言し、この南無妙法蓮華経こそが一切衆生平等成仏、過去、現在、未来に渡り、最高唯一の教えである。私が説いた法華経以前の教え、法華経以外の教えを捨てよ、法華経以外の教えに心を移してはいけないと示し給う。
 そして、釈尊、自ら、私が亡くなりし後二千年が過ぎ、末法という時代を迎えたならば、私の説きし経文の文字は御経として残りても、修行とその功徳にはまったく成仏する力無しと示す。
 日蓮、その末法の始め、鎌倉時代に生まれ、釈尊の一切の経文を学び、法華経こそ最高唯一、一切衆生平等成仏の法なることを、法華経に説かれし予言の通りに悟り、法華経の教えを身を持って読み、悟り、天下に「立正安国論」を示し、大難四ヶ度小難数知れずの法難を受け、釈尊の教えを守り、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と、法華経以外の成仏出来ぬ教えを破折し、上行菩薩の再誕日蓮と自ら示し、末法に廣宣流布すべき南無妙法蓮華経の結要付属を受けた事を宣言す。
 法華経の文底、本因妙の法、南無妙法蓮華経と人法一箇せし自らを合わせて、日蓮が魂を墨に染め流し、南無妙法蓮華経日蓮在御判と末法の御本仏として、釈迦在世より末法に至まで、未だかってない法を根本とした大曼荼羅本尊を顕し給う。合わせて、常不軽菩薩の跡を継ぐ、法華経の行者の振る舞いを示す。過去、現在、未来の一切の仏もこの南無妙法蓮華経に縁し、信じ、修行し、悟り仏に成り給う故に、この御本尊は全ての仏が悟った法であり、一切衆生平等成仏のしるし也。
 今○○○○は※深き縁あって、この法華経を信じ、この御本尊を拝し、この信仰を貫き生涯を送る。
 ※子供・未入信者の場合はふさわしくないので、南無妙法蓮華経の題目に深く縁したり。
 仏は人と生まれし事は一切の仏と同様に、この南無妙法蓮華経に縁し、信じ、修行し、仏と同じ仏性を自覚し、森羅万象、全ての生命が、南無妙法蓮華経の仏となる為に此の世に産まれたりと示す。信仰とは決して己の希望や欲望を叶える為や名聞名利、現世利益の為ではないと示し給う。
 法華経「神力品第二十一」に曰く
 仏の亡くなった後、この法華経を信じ、心に持つべし、この事を守れる者は必ず仏となる、この事に疑いを持ってはならぬ。
 と、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、観音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩等々の仏、菩薩を本尊として、救って下さい。守って下さい。助けて下さいと、おすがりするのではなく、釈尊はじめ、全ての仏が悟り得た南無妙法蓮華経の法こそが、全ての仏の中味であり、その中味の南無妙法蓮華経の法こそ、衆生に信じ持てと釈尊自らが法華経に示し給う。
 正直に方便を捨てて但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る人は煩悩業苦の三道を法身般若解脱の三徳と転じ三観三諦即一心に顕れ其の人所住の処は常寂光土也、釈迦多宝十方の諸佛も霊山会上の御契約なれば遺されたる者、共々に日蓮房日蓮房と一心に南無妙法蓮華経の題目を叫けばば、日蓮すぐに飛び来たりて手を取り肩に掛けて慥かに寂光の宝刹へ送り玉う也。
 「師弟共に霊山浄土に詣り、過去・現在・未来の一切の仏とまみえん」
 「同じ妙法蓮華経の種を心に孕ませ給いなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給うべし」
 世間の宗教が説く。迷いや、邪悪な心を、退治し、我慢し、仏になるのではなく、無くす事の出来ない。地獄・餓鬼・畜生・修羅の迷いの生命を抱えたまま、南無妙法蓮華経の題目を信じ、唱え、法華経の行者として生き、差別区別無く即身成仏する法こそが、真実、一切衆生平等成仏の法也。故に、
 妙法経力即身成仏
 凡夫改めずして法華経の行者として仏なり
 願くば眼前の精霊○○○○南無妙法蓮華経の功徳に縁し速やかに日蓮日興の弟子として必ず成仏を遂げ給う可し。
 「毎に自ら是の念を作く何を以てか衆生をして無上道に入り速やかに仏身を成就する事を得せ令めんと」
 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経