二種類の三大秘法

 日蓮大聖人の法には、現代の信仰者が混乱して見失っている二種類の三大秘法が有ります。
 それは、日蓮大聖人が法華経の行者として生き、成仏の自覚を持たれ、本尊を顕した時点の三大秘法と、日蓮大聖人没後、教団に信心修行の形態が定まってからの時代の三大秘法です。
 その事を明確に表現し、把握出来る身近で親しみのある文献の代表として、日目上人の申状と日行上人の申状、日有上人の申状があります。この三師の申状を比較対照をさせて頂き、誰でも分かる様に単純簡素に【二種類の三大秘法】とは何なのかを説明申し上げたいと思います。

①日目上人の申状
 仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉、竜樹、天台、伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を信敬せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、
とあり、【本尊】【戒壇】【題目】の順序で示されています。

②日行上人の申状
 教主釈尊より親り多宝塔中の付嘱を承け、法華本門の肝要妙法蓮華経の五字並びに本門の大曼荼羅と戒壇とを今の時弘むべき時尅なり、
とあり、【題目】【本尊】【戒壇】の順序で示されています。

③日有上人の申状
 爾前迹門の諸宗の謗法を対治し、法華本門の本尊と戒壇と並びに題目の五字とを信仰せらるれば、広宣流布の金言宛も閻浮に満ち、闘諍堅固の夷賊も聊か国を侵さじ。
とあり、日目上人と同様【本尊】【戒壇】【題目】の順序で示されています。

 そこで、何故、
 日目上人、日有上人の【本尊】【戒壇】【題目】
 日行上人の【題目】【本尊】【戒壇】
の違いの理由は何なのかを申状の文章によって考察をさせて頂きます。
 まず初めに、日行上人の申状の
教主釈尊より親り多宝塔中の付嘱を承け、法華本門の肝要妙法蓮華経の五字並びに本門の大曼荼羅と戒壇とを今の時弘むべき時尅なり、
の御文は、日蓮大聖人の、【上行菩薩の再誕】の自覚を起点にして、三大秘法を解釈し構築されているという事が、読んで字の如く良く分かります。釈尊より妙法蓮華経を結要付嘱を承けた上行菩薩が、今の時弘むべき時尅である末法に、上行菩薩の再誕日蓮として現れた。という事であります。
 結要付嘱されたのは当然眼に見えない法であり、文字、声にすれば妙法蓮華経の法であります。この眼に見えない妙法蓮華経の法は、釈尊がインドで、サッダルマプンダリーカストラーと説き示された法が、中国に伝わり音写翻訳されて妙法蓮華経と訳され表現されたものでありますから、妙法蓮華経ではなかったのであります。つまりサッダルマプンダリーカストラーも妙法蓮華経も元来眼に見えない法を表現する為の媒体であり、真に大切なものは、法華経の行者として妙法を実践し生き妙法を体得する事なのであります。当然、結要付嘱の時に紙や板にサッダルマプンダリーカストラーと書き顕した【本尊】は有りません。当然【本尊】を結要付嘱したのではありません。
 この様に考えると、日行上人が申状の中で表現した三大秘法の【題目】【本尊】【戒壇】の順序は、日蓮大聖人が本尊を顕す以前を踏まえて、三大秘法がどの様な順序で成立しているのかを示されているのであります。つまり【題目】とは、先に説明した通り、眼に見えない心に悟る法であります。その法を、日蓮大聖人は法華経の行者として生き、龍ノ口法難に於いて、上行菩薩の再誕の自覚と法華経の行者として人と法が一体になった成仏の自覚を持たれます。その自覚を持たれたからこそ龍ノ口法難直後の依智において、初めて御本尊を顕す事が出来たのであります。成仏の自覚、仏の自覚無しに本尊を顕す事は出来ません。日蓮と同じ様に南無妙法蓮華経の御題目を首題とした本尊を信仰し、法華経の行者として生き、一切衆生平等に私と同じ様に成仏してもらいたいとの胸中で顕した本尊でなければ、ただの自己満足の戯言のサインの様な落書きという事になってしまいます。釈迦如来や阿弥陀如来、薬師如来の仏像を本尊にして、救ってください、助けてください、守ってくださいとおすがりする信仰の本尊ならば、それらの宗派の、教祖開祖に成仏の自覚が無くとも、仏師に彫らせた偶像本尊を安置して、おすがりし、ただひたすら称名念仏の様に、仏の名前を何度も何度も繰り返し呼び拝めば良い訳でありますが、日蓮大聖人だけが唯一法を本尊に顕している訳でありますから、本尊を顕す日蓮大聖人に成仏の自覚認識がなければ絶対に顕せない、顕してはいけない本尊なのであります。本尊を顕したことを未曾有と思い込んでいる人々がいますが、それも勿論未曾有ではありますが、本当の未曾有の意味は、本因妙の法を一切衆生に知らしめる為に本尊を顕した事が未曾有なのであります。
 【題目(法)】を【本尊】に顕し、その【本尊】を安置し、信心修行する場所を【戒壇】とし、三大秘法が成立しているのであります。
 【題目(法)】が源である先に有ってこそ【本尊】を顕す事が出来るのであります。【本尊】が先に来るならば、法は後という事になってしまいます。それでは神秘、超自然のオカルトであり教義信仰ではでは無い事になります。今、大石寺は神秘、超自然のオカルト信仰になってしまっているのであります。
 日目上人の申状、日有上人の申状の、
 【本尊】【戒壇】【題目】の順序は、日蓮大聖人の滅後、日興上人、日目上人が身延離山をして、大石寺を開き、信仰の道場を定着させてからの、三大秘法の立て方であります。
 信仰の根本を【本尊】とし、信心修行の中心本山を大石寺と定め【戒壇】とし、そこに【題目】を唱える。それこそが正しい信心修行のあり方であると、天下に折伏し訴える所の三大秘法なのであります。
つまり、【題目】【本尊】【戒壇】の淵源の三大秘法が、まず前提として無ければ、次の【本尊】【戒壇】【題目】の三大秘法は成り立たず、いきなり【本尊】をはじめとする三大秘法を論ずる事は出来ないのであります。
 今現在の大石寺は、【題目】【本尊】【戒壇】の三大秘法の淵源を忘却して、 【本尊】【戒壇】【題目】の、それも【戒壇】【本尊】【題目】という【戒壇】を一番先にした【戒壇本尊】絶対を日蓮大聖人の信仰であると頑迷に固持、誇示しているのであります。
 この背景には、第二十六世日寛上人の【報恩抄文段】【依義判文抄】に示されている、
 【本尊】に人と法【戒壇】に義と事【題目】に信と行の六大秘法を開き、【戒壇本尊】を三大秘法総在一大秘法の究竟の本尊と建てる解釈を後ろ盾にして、これこそが日蓮大聖人の法であると、議論無用の伝家の宝刀になってしまっているのであります。
 では、この日寛上人の解釈で、日行上人の申状の言葉を解釈できるでしょうか。出来ません。【題目】の信と行。これは大石寺中心の信仰が出来上がってからの事であります。
 教主釈尊より親り多宝塔中の付嘱を承け、法華本門の肝要妙法蓮華経の五字並びに本門の大曼荼羅と戒壇とを今の時弘むべき時尅なり、
 結要付嘱された法である【題目】は、信と行に分類出来る以前の段階の森羅万象全ての生命に貫かれた一切衆生平等成仏の法。釈尊から承けたという範疇を超えた、釈尊はじめ一切の諸仏が悟った根源の妙法蓮華経の法なのであります。本因妙の【法】があって、その法を、成仏の自覚をもって《南無妙法蓮華経 日蓮》と【本尊】に顕し、その本尊を安置し信心修行の場所とする【戒壇】この【戒壇】も、義と事を分ける以前の、山谷曠野どの場所であっても妙法蓮華経の法に叶う、法華経の行者として生きる心、姿こそが成仏である。全ては、法を源とするからこそ、「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」(南条殿御返事全1578p)なのであります。【戒壇本尊】を拝さなければ成仏出来ないと言う偏頗で狭小な考えでは無いのであります【題目(法)】が平等なら【本尊】も平等【戒壇】も当然、区別、差別、ランクの無い絶対の平等なのであります。
 この【題目】【本尊】【戒壇】の順序が忘れ去られてしまって、日蓮大聖人滅後の、教団成立後の【本尊】【戒壇】【題目】のみで三大秘法が解釈されている現代の状況は、三大秘法をどれ程声高に語れども、それは三大秘法では無い事に目覚めなくてはいけない。日蓮大聖人は本尊を己心の外に置く偶像として顕したのではないのに、現在の【戒壇本尊絶体】の頑迷な風潮は、己心外の完全な偶像崇拝に堕しているのであります。
 日目上人、日有上人の時代には、何の混乱もなく、この二種類の三大秘法が立て分けられていたのであります。加えて、日蓮、日興、日目、日道、日行~日有の時代には【戒壇本尊】という言葉が有りません。戒壇本尊絶対という信仰観もなかったのであります。もしあれば、当然天下に訴える申状の中に【戒壇本尊】への信仰が表示されていなければならないはずであります。無ければ国家諫暁にならなくなってしまうのであります。
 「魂魄佐渡に渡りて」開目抄(全223p)
 「日蓮が魂を墨に染めながして書きて候ぞ」経王殿御返事(全1124p)
の【魂】とは、日蓮個人の私的【魂】ではなく、本因妙の法を悟られた、法と一体化した人法一箇の魂であり、一切衆生に魁て悟った法であり、一切衆生に貫かれた一切衆生共通共有の魂なのであります。
 弘安二年十月十二日に戒壇本尊を顕し、戒壇本尊に日蓮が魂は移ったのだから、弘安五年十月十三日に亡くなるまでの三年間、日蓮はもぬけのからだったとか、一切の事物が成住壊空の四劫にさらされても、戒壇本尊だけは壊空にならない、何故なら、戒壇本尊は日蓮大聖人の法の全てだから、戒壇本尊だけは無くならないのであり、戒壇本尊が無くなれば、日蓮大聖人の法が無くなるという事である、無くならないと信じるのが日蓮正宗の信心だと、大真面目に平気で頑迷に言い続けている大石寺の人々は、そんな荒唐無稽な教義と言えない考えを広宣流布しようとしているのであります。そんな事を広宣流布して、一切衆生平等成仏の法を身をもって開示された日蓮大聖人に師弟一箇出来る、同じ志しと目的を持った弟子檀那の信仰と考えているのでしょうか。
 【題目(法)】【本尊】【戒壇】の順序で三大秘法が産まれた事を忘れ、【本尊】【戒壇】【題目】の三大秘法こそが三大秘法であると思い込んでいる現代の状況は、【題目(法)】【本尊】【戒壇】の根幹となる三大秘法を忘れた根無し草の三大秘法なのであります。
 正本堂建立時に、池田大作さんが国会喚問に呼ばれ政教一致を指摘批判される事を回避したいが為に大石寺に圧力を掛け、教義改変を迫ったのであります。それを受けた大石寺は日達上人主導の下、それまでの国立戒壇の主張を否定して、国立戒壇を言わない事としました。動機は政治的で不純ですが、一閻浮提広宣流布を言いながら、取り敢えず日本国立を主張する従来の考え方自体が、日蓮大聖人の法を矮小化し矛盾する事ですから、どれ程歴代先師が言って来た事であっても、どこかの時点で決断し修正しなければいけない矛盾した事柄だったのであります。
 しかし、大石寺は国立戒壇を言葉として言わなくなっただけで、戒壇本尊絶対の信仰観は、全く同じなら、その教義は、国立戒壇、日蓮正宗国教化、世界国教化を目的目標にしているならば、世界中の人々が、戒壇本尊を拝む様になれば、戦争も災害も病気も無くなり、平和な世の中になると信じ込んでいる、顕正会と思考はまったく一緒なのであります。
 日本広布、東洋広布、世界広布という夢幻の順縁広布は無いのであります。日蓮大聖人の法は、一切衆生の生命は、永遠常住に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界互具の生命であり、御授戒を受け入信すれば、揺るがない仏の生命だけになり、仏以下の九界の生命が消滅するということはないのであります。日蓮大聖人の高弟であった五老僧と、それに連なる信仰者が、日蓮大聖人滅後、謗法と化して行った事実をを見れば、入信しても、どこまでも煩悩の大海に溺れながら泳ぐ凡夫でしかないのであります。退転の心懈怠の心、謗法の心を抱えながら、信仰の心で乗り越えて行かなければならないのであります。固定不動の順縁広布は、千変万化する凡夫の生命、集団に確立する事は不可能な事であります。つまり、十界互具の法に照らした時、一切衆生は全て永遠常住に逆縁の衆生なのであります。順縁広布は有り得ないのであります。国王の強権や国家の多数決の力で国教として、国民に信仰形態を守らせ、学校で宗教教育し洗脳しても、それは一人一人の真心からの信心とは違うのであります。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教を国教としている国々の現実の姿を見れば、縛りつける事が出来ない人間の心を信仰に名を借りて人為的に縛る事で、沢山の人が心を殺して生きているという、理想国家で無い事が良く分かるはずであります。私達が出来る、目指すべきは逆縁広布だけなのであります。一切衆生平等成仏の法を種蒔きして、一切衆生に縁せしめて行く逆縁広布こそが、日蓮大聖人の本当の目的なのであり、私達に出来る事なのであります。大切な人へ、縁する人へ、日蓮大聖人の仏法を一言でも伝え縁せしめて行けば、必ず、その縁によって森羅万象全ての生命が成仏出来るのであります。
 順縁広布を肯定すれば、十界互具の法は矛盾し否定されてしまうのであります。